竹崎順子(読み)たけざき・じゅんこ

朝日日本歴史人物事典 「竹崎順子」の解説

竹崎順子

没年:明治38.3.7(1905)
生年:文政8.10.25(1825.12.4)
明治期の教育家。肥後国(熊本県)上益城郡杉堂村に郷士矢嶋忠左衛門直明と鶴子の第5子として生まれる。妹に徳富久子(蘇峰,蘆花の母),横井津世子(小楠の妻,海老名みや子の母),矢嶋楫子がいる。15歳で竹崎律次郎(茶堂)と結婚。結婚後茶堂は横井小楠門下となり,のち家塾白新堂を開く。順子も共に子女の教育に当たりながら,自身も塾で「大学」を学んだ。明治20(1887)年徳富久子,不破つるを発起人として熊本女学会が発足。順子は同年来熊した海老名弾正により受洗し,21年不破つるに替わり64歳で熊本英学校付属女学校(22年熊本女学校,現熊本フェイス女学院高等学校)舎監,のち校長となる。81歳で没するまでの17年間を,キリスト教信仰と儒教的女徳に基づいた教育者として,生徒と起居をともにし,熊本の女子中等教育に献身した。甥の徳富健次郎(蘆花)による伝記『竹崎順子』がある。<参考文献>山崎貴美子「竹崎順子」(家族史研究会編『近代熊本の女たち』上)

(三鬼浩子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹崎順子」の解説

竹崎順子 たけざき-じゅんこ

1825-1905 江戸後期-明治時代の教育者。
文政8年10月25日生まれ。徳島久子,矢島楫子(かじこ)の姉。天保(てんぽう)11年竹崎茶堂と結婚,茶堂がひらいた日新堂で女生徒をおしえる。明治20年海老名弾正のもとでキリスト教に入信,翌年熊本英学校付属女学校(のち熊本女学校)の舎監,30年校長となった。明治38年3月7日死去。81歳。肥後(熊本県)出身本姓矢島

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の竹崎順子の言及

【矢島楫子】より

…熊本県出身。徳富蘇峰,徳冨蘆花の叔母で,熊本女学校長であった竹崎順子の妹。酒乱の夫と35歳で離婚,1872年(明治5)上京,教員伝習所で学び桜川小学校に奉職したが,78年新栄女学校に移り翌年受洗。…

※「竹崎順子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android