笠神村(読み)かさがみむら

日本歴史地名大系 「笠神村」の解説

笠神村
かさがみむら

[現在地名]本埜村笠神

現本埜村域のほぼ中央部に位置する。史料上は笠上とも。笠神様と通称される笠神神社があり、古くから疱瘡など皮膚病の治癒に霊験があると信仰されてきた。南陽なんよう(現天台宗)と愛宕神社を祀る二つの丘と、南の中根なかね村から張出した舌状台地の麓に位置し、田方と畑方の反別がほぼ同じ村であった。東方に笠神御立埜原かさがみおたてやわらとよばれた広大な原野があったが、寛文二年(一六六二)から始まった埜原新田の開発により分離独立した。寛永一〇年(一六三三)の物木村・小林村入会裁許絵図(篠原家蔵)に村名がみえ、旗本杉浦領であった。寛文三年埜原新田開発のため周辺の村々とともに幕府領となり、元禄一四年(一七〇一)からは佐倉藩主稲葉氏(老中)領で、印旛沼開発工事が行われた天明六年(一七八六)三月から九月まで幕府に上知された期間を除いて、稲葉氏が山城国よど(現京都市伏見区)へ転封された享保八年(一七二三)以降も同氏領として幕末に至る(天保一四年「村明細帳」蓮見家文書)


笠神村
かさがみむら

[現在地名]美濃市笠神

長良川右岸、南北を小山に挟まれ、西の大矢田おやだ村南部からの谷間の開口部に位置し、北は極楽寺ごくらくじ村、東は長良川を隔てて生櫛いくし村。村名の由来は当地の上神かさがみ神社によるという。現揖斐いび谷汲たにぐみ村の横蔵よこくら寺蔵の大般若波羅蜜多経の永和三年(一三七七)七月二九日銘をもつ奥書に「武儀郡山口郷生串瘡神宮」とみえ、現在は生櫛(生串)と笠神(瘡神)は川で隔てられているが、中世以前の河道は生櫛の東側にあったとされる。

慶長一六年(一六一一)の金森氏断絶によってその旧臣である旗本島領となり、村高は慶長郷帳で七三五石、元和二年(一六一六)の村高領知改帳で七〇一石。


笠神村
かさがみむら

[現在地名]多賀城市笠神・笠神一―五丁目・丸山まるやま一―二丁目・つる一―三丁目・大代おおしろ一―三丁目・伝上山でんじようやま一丁目・同三丁目・下馬げば四―五丁目など

下馬村の東に位置し、北方塩竈からしちはま(現宮城郡七ヶ浜町)に延びる丘陵上と南にひらける砂押すなおし川北岸の沖積地に立地。「留守家旧記」に「留守のひくハん年来之事ハ(中略)南宮・笠上・すり殿と云々」とあり、留守分限帳(留守文書)の「里之人数」の最初に「かさかみ図書助 一まん三千かり、十六貫三百地、山、以上四十二貫三百分」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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