日本歴史地名大系 「下馬村」の解説 下馬村げばむら 福井県:福井市旧足羽郡地区下馬村[現在地名]福井市下馬町福井城下の東南足羽川左岸に沿い、板垣(いたがき)村の南東に位置する。中世は木田(きだ)庄の内であったと思われる。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一三一六・三四石。正保郷帳によると田方一千一六一石余・畠方一五五石。福井藩領。「足羽社記略」は「下馬村、東シテ去足羽山二十町也、乃チ当社ノ神前也、故ニ昔ノ日相往還スル者、畏敬神威、令従此処下馬シ去ラシム矣、然フシテ渉足羽川、待合(まちあひ)村ニシテ乗ラシム、今云フ町屋村也、(中略)其ノ下乗ノ間、直チニ計ルニ二十町余」と記し、「帰鴈記」も足羽明神(現足羽神社)を述べる中で「麓より遥に隔て下馬の郷といふは往来の古道なり。 下馬村げばむら 宮城県:多賀城市下馬村[現在地名]多賀城市下馬一―五丁目・笠神(かさがみ)一―二丁目・伝上山(でんじようやま)一丁目・同三―四丁目など留(とめ)ヶ谷(や)村の東に位置し、北方塩竈から張出した丘陵上に立地。永正三年(一五〇六)「下馬村三千苅」が郷古藤三郎に与えられ(四月七日「留守景宗宛行状」留守文書)、永禄三年(一五六〇)には村岡孫左衛門・松岡源内源左衛門・鎌田蔵人に各三千苅ずつが下馬村で与えられている(三月七日「留守顕宗宛行状案」大島正隆採訪留守文書)。元和六年(一六二〇)一〇月の伊達政宗黒印状(伊達家文書)に笠神野地・大城(おおしろ)(大代)沼尻・下馬が沢野地の三ヵ所は五年間荒野として扱うが、その後は検地を行い役を課すとある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報