極楽寺村(読み)ごくらくじむら

日本歴史地名大系 「極楽寺村」の解説

極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]岸和田市極楽寺町・天神山てんじんやま町一―三丁目

はた村の南東、津田つだ川中流域に位置する。村高は古検高四二二石余で(「岸和田御領分中古高今高仕出帳」鬼洞文庫蔵)、二五〇歩が一反の検地という(岸和田市史)。慶長九年(一六〇四)の天下谷之内極楽寺村検地帳(東京大学史料編纂所蔵)でも同高、うち八五石余は永荒、毛付高三三六石余(うち五二石余は畑分)。和泉国村高帳(鬼洞文庫蔵)によると正保二年(一六四五)は四九六石余。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]玉穂町極楽寺

笛吹川の支流しぶ川と鎌田かまた川に挟まれる。東は渋川を挟んで大津おおつ(現甲府市)、北は高室たかむろ(現同上)、西は鎌田川を挟んで成島なるしま村・乙黒おとぐろ村。「一蓮寺過去帳」によれば、永享九年(一四三七)頃の七月一二日供養の声阿弥陀仏に「極楽寺」、文明八年(一四七六)頃の浄阿弥陀仏に「極楽寺門前」と注記され、同一八年三月一日の臨阿弥陀仏に極楽寺殿、延徳四年(一四九二)七月二二日合戦討死の声阿弥陀仏に極楽寺聡三郎とある。門前とあるので、極楽寺という寺があったと考えられる。極楽寺氏は極楽寺の地にいた国人と思われる。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]加賀市大聖寺畑町だいしようじはたまち

おか村の西に接し、江沼えぬま丘陵南麓に位置する。村名は寺院極楽寺があったことによるという。江戸時代には畑村とも称した。畑村は極楽寺村と下福田しもふくだ山岸やまぎしの間にある出村のことであるとも、極楽寺村の旧名であるともいわれる憩紀聞。「加賀志徴」には「大聖寺藩中田丸氏所蔵の古図に、畑村極楽寺とて一村とせり。然れば極楽寺村の古名は畑村なる事いちじるし。唯今にても村名を、十に八九は畑と呼びて、極楽寺にては通ぜざるが如し」とみえるが、近世の郷帳類はすべて極楽寺村となっている。昭和一〇年(一九三五)に畑に改称。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]上市町極楽寺

上市川の扇状地の扇頂部南の台地上に位置し、東を上市川が流れる。対岸は釈泉寺しやくせんじ村、西は眼目新さつかしん村。村名はかつて天台宗極楽寺があったことに由来するという(上市町誌)寺田極楽寺てらだごくらくじ村と区別するため加積極楽寺かづみごくらくじ村とそれぞれ郷名を冠してよばれたという(越中志徴)。天正九年(一五八一)六月日の黒金景信等連署制札(広井家文書)察花さつか(眼目村)とともに村名がみえ、無道狼藉の者は搦め捕り、早速注進するよう命じられている。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]美濃市極楽寺・藍川あいかわ

長良川右岸に位置し、北部は誕生たんじよう山、南部はその麓の平坦地。北東は横越よこごし村。誕生山はその西峰天王てんのう山とともに「古事記」所載の喪山伝説に関連し、山頂にあった誕生神社は天稚彦命の召使天探女を祀ったとされ、山名も探女に由来するという。応永八年(一四〇一)二月一八日の事書条々(京都南禅寺慈氏院蔵東禅院文書)に「極楽寺」、同二一年七月八日の足利義持御教書写(彰考館蔵古簡雑纂)に「美濃国東山口庄極楽寺」とみえる。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]東金市極楽寺

滝沢たきさわ村の北西に位置する。上極楽寺村・下極楽寺村二村に分けられることもある。一五世紀中頃に成立した仏教説話集三国伝記」の巻八に「上総国極楽寺郷居住高階氏ノ女夢想ノ事」の話がある。ここに登場する高階氏を高師直と同族の高階氏とみて、上総国守護を務めた足利氏との関連から極楽寺郷の領主と推定する説がある。当地が作田さくだ川最上流に位置することから領主が居を構えるのに相応しく、小字建沢たてさわは「館沢」の意味とする。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]鎌倉市極楽寺一―四丁目・稲村いなむらさき一―五丁目・七里ガ浜東しちりがはまひがし三丁目

極楽寺坂切通の西、極楽寺川のつくる谷間を中心とした村で、南は七里ヶ浜、西は村・腰越こしごえ村、東は切通を越えて坂之下さかのした村に接する。村央を極楽寺坂を通って鎌倉に入る道路が通過し、南の海岸沿い、稲村ヶ崎を回って鎌倉に入ることもでき、鎌倉の西南からの通路を扼し、交通上重要な位置を占める。

鎌倉時代の半ば以来、北条氏の一族で重時を始祖とする家がこの付近に別邸を構え、極楽寺を創建した。村名は同寺にちなむ。徳川家康が天正一九年(一五九一)一一月日付で円覚寺に与えた寺領寄進の判物(鎌倉市史史料編二)には「相模国小坂郡鎌倉内」の極楽寺のうちで三一貫六二〇文とみえる。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]揖斐川町極楽寺

三輪みわ村の北西、城台じようだい山西尾根の麓にある。村の西を横蔵よこくら(現谷汲村)への道が南北に通じている。同寺末で三輪神社別当であった極楽寺は、天文一六年(一五四七)斎藤道三の揖斐城攻略の際兵火にかかり焼失したという。当地の弁天寺蔵の妙法蓮華経疏記に「濃州揖斐 極楽寺」とあり、弘安九年(一二八六)九月二日の紀年をもつ。また永和二年(一三七六)四月一四日銘の横蔵寺蔵の大般若波羅蜜多経にも極楽寺とみえ、同寺の存在したことが知られる。「蔗軒日録」文明一七年(一四八五)二月四日条にみえる濃州極楽寺は同寺のことか。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]一宮市浅井あざい極楽寺ごくらくじ

北は木曾川に接し、東は大野おおの村。「尾張名所図会」は民部省図帳を引用して「葉栗郡極楽寺号若栗寺、寺領四十八束有余、以浦領貢代、法然上人三夏不出之縄室也、元亨二年十月」と記す。天保村絵図によれば概高三四石余は田二町六反余・畑二町余で、藩士岡千代右衛門・大森庄九郎両名の給知。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]彦根市極楽寺町

森堂もりどう村の南から西にかけてを村域とし、南は馬場ばば村、東は松寺まつでら村。慶長高辻帳に村名がみえ高四一二石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で四ツ四分。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]榛原町大字篠楽ささがく

篠野しのの村東方に位置。村名は当地にある寺院極楽寺に由来。近世初期は篠野村(村高三二〇・五一石)のうち。寛永郷帳に「篠野極楽寺村」とみえ、のち村高を折半してそれぞれ独立した。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]御所市大字極楽寺

金剛山東麓斜面の村。東は南郷なんごう村。近世初期は北窪きたくぼ村に属し、御所藩領―幕府領―郡山藩領―幕府領と変遷、元禄(一六八八―一七〇四)頃までに高分して独立。


極楽寺村
ごくらくじむら

[現在地名]椎田町極楽寺

日奈古ひなご村の南に位置し、極楽寺川上流域の山間に立地する。元和八年人畜改帳では家数二九・人数六七(うち百姓五・名子一九)、牛一〇・馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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