デジタル大辞泉
「多賀城市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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多賀城市
たがじようし
面積:一九・七四平方キロ
もと宮城郡に属し、県のほぼ中央に位置。南・西は仙台市、北は宮城郡利府町・塩竈市、東は宮城郡七ヶ浜町に接し、奥羽山脈から派生した陸前丘陵の一つである松島丘陵の南端部と仙台平野の北端部とに立地。市の南西端を七北田川が流れ仙台市蒲生で海に注ぎ、市中心部を砂押川が東流し、貞山堀(舟入堀)に通じる。市の中央部をJR仙石線と国道四五号が、北部をJR東北本線が通る。市名は古代の陸奥国府・鎮守府多賀城に由来。
〔原始・古代〕
縄文時代の遺跡として多賀城跡から前期・中期の石器・土器が検出されており、大代遺跡からは晩期の土器が出土した。同じく大代にある桝形囲遺跡は、「石器時代にも稲あり」と有名になった弥生時代の貝塚で、同時代の遺跡に大代洞窟遺跡もある。古墳時代の遺跡としては多賀城跡五万崎地区で四世紀頃とみられる方形周溝墓が発見されているほか、砂押川右岸(南岸)の自然堤防上に立地する山王遺跡では、五世紀頃の石製模造品を伴う集落が営まれていたことが判明している。高崎地区の丘陵上には横穴式石室をもつ後期の高崎古墳群がある。
陸奥国の政治の中心であった多賀城は市北部の丘陵上、浮島・市川地区に築かれていた。多賀城設置については正史に記載がないが、多賀城修造の記念碑ともいわれる多賀城碑(壺碑)には、大野東人により神亀元年(七二四)に創建されたとあり、「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条には多賀柵が初見。多賀城の名が史料に初めてみえるのは同書宝亀一一年(七八〇)三月二二日条だが、八世紀前半に設置されたことは疑いない。同書延暦四年(七八五)四月七日条に、多賀・階上の二郡を置いたという記事がある。これ以前国府防備の兵を募るため仮にこの二郡(権郡)を置いたが、開設の名ばかりで統領も任じられず、実態的に機能していない、正規の郡として立て官員を備え置くべきであるという、陸奥按察使・鎮守将軍大伴家持の奏言があり、これを許したものである。しかしこれ以後、多賀郡の名は史料にみられないので、この真郡設置には疑問もあるが、設置されたとしても一時的な措置で短期間であったとみられる。その範囲も明確でないが、多賀城周辺の狭い地域であったろう。
多賀城は一辺約六七〇メートルから一〇〇〇メートルの築地で囲まれた不整方形の外郭地区と、中心部にありほぼ一辺一〇〇メートルの長方形に築地で区画された政庁地区からなる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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多賀城〔市〕
たがじょう
宮城県中部,仙台市と塩竈市の間にある市。1971年市制。神亀1(724)年大野東人が鎮守府として多賀城を築き,延暦21(802)年坂上田村麻呂が胆沢城に鎮守府を移したのちも陸奥国国府として東北地方の政治の中心地であった。城跡は丘陵上にあり,発掘により,多賀城廃寺や外城と内城に分かれる全貌がほぼ明らかになった。外城近くに東北歴史資料館がある。史跡が豊富で,特別史跡の多賀城跡,多賀城廃寺跡のほか,日本三古碑の一つで重要文化財に指定されている多賀城碑(壺の碑)がある。旧海軍工廠跡を中心に鉄鋼,機械,肥料,食品などの工場が進出し,仙台新港背後の工場地帯をなす。仙塩地区の住宅地としての性格もあり,人口が急増している。国道45号線,JR仙石線が通る。2011年,東北地方太平洋沖地震に伴う津波により大きな被害を受けた。面積 19.69km2。人口 6万2827(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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