笹谷村(読み)ささだにむら

日本歴史地名大系 「笹谷村」の解説

笹谷村
ささだにむら

[現在地名]清水町笹谷

山内やまうち村の西、丹生山地の東部にあり、北は滝波たきなみ村。古くは志津しづ庄内の地。天正一一年(一五八三)四月付羽柴秀吉禁制状(賀茂神社文書)に「さゝ谷」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に高五七二・二〇三石が記され、以後石高は変わらない。元和元年(一六一五)一二月付の篠谷村中山持覚帳(「清水町史」所収)の「篠谷村」は当村で、これによると持山六三ヵ所、山手銀四三匁四分四厘とある。正保郷帳によれば田方四二一石余・畠方一五〇石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)葛野藩領、その後再び幕府領になった。

当村は新田開発を行い、弘化二年(一八四五)二月付の越前国丹生郡笹谷村新田検地帳(渡辺家文書)によれば高一一石余・反別一町二反余(下々田八反余・山田四反余)


笹谷村
ささだにむら

[現在地名]大東町篠淵しのふち

塩田しおた村の北西あか川の支流清田せいだ川上流域に位置する。下流には清田村がある。正保国絵図には篠谷村とある。慶安三年(一六五〇)の検地帳によると田方二町九反余・分米三三石余、畑方一町九反余・分米一一石余。屋敷四(庄屋一・寺一・御役目屋敷二)。元禄十年出雲国郷帳では高五七石余、寛文四年(一六六四)には本田高五四石余。「雲陽大数録」によれば高四〇石。明治八年(一八七五)箱淵はこぶち村と合併して篠淵村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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