答院(読み)けどういん

日本歴史地名大系 「答院」の解説

答院
けどういん

川内せんだい川とその支流あな川・久富木くぶき川・まえ川・夜星やせい川などの流域一帯を占め、現薩摩答院町・薩摩町・宮之城みやのじよう町・鶴田つるだ町一帯に広がる。

康治元年(永治二年、一一四二)三月一日の大前道助譲状案答院記)に「薩摩国答院中津河名」とみえる。大前氏は在庁官人系の有力な在地領主で、その一族は川内川流域に勢力を張っていた。道助は大治六年(一一三一)には薩摩国在国司を称し(同年二月三〇日「薩摩国在国司大前道助請文案」東京大学国史研究室蔵後日之式条附収文書)答院郡司として虎居とらい(現宮之城町)を築いたと伝えられる(三国名勝図会)。「宮之城記」所収の建久四年(一一九三)の薩摩国諸郡注文には答院として自名・太郎丸たろうまる名がみえ、太郎丸名は長野ながの(現薩摩町)に比定される。薩摩国建久図田帳には島津庄寄郡として邪答院一一二町があり、平家没官領地頭は千葉介(常胤)であった。当院のうちに富光とみみつ五四町・倉丸くらまる三〇町・時吉ときよし一五町・得末とくすえ一三町が含まれる。富光名は現宮之城湯田ゆだ付近、倉丸名は現答院町下手しもで馬頃尾まころべ付近桑丸くわまる、時吉名は現宮之城町時吉、得末名は現答院町藺牟田の得幸いむたのえこう付近に比定されている。富光名主本郡司熊同丸は答院郡司大前師道の子道嗣で、湯田城(現宮之城町)にいたと伝える(三国名勝図会)。倉丸名の本主滝聞太郎道房も同じく大前師道の子で、滝聞たきぎ城にいたと伝える(「答院町史」など)。時吉の本名主在庁道友は大前道友。得末の本名主は肥後国住人江田太郎実秀とある。建保四年(一二一六)六月二八日には当院郡司大前道秀から新田宮に神馬三〇疋が寄進され(「答院郡司大前道秀寄進状案」答院記)、承久三年(一二二一)八月二一日には同宮の放生会雑事として答院は御館御門から原中までの道造り、騎兵一人・競馬一疋・出馬一疋・相撲二人などを出すことが課されている(「薩摩国庁下文」旧記雑録)。寛元二年(一二四四)六月二一日付の僧忠兼申状(同書)裏書には「答院別納名主七郎薩摩郡内平礼石寺事」と記される。この別納べつのう名は現薩摩町中津川の別野なかつがわのべつのに比定され、名主七郎はこの申状を認めた忠兼のことである。同状によれば忠兼は隈之城くまのじよう(現川内市)金剛こんごう平礼石ひられいし寺座主薩摩忠直の子である。

宝治元年(一二四七)の宝治合戦で三浦氏が滅ぶと姻戚関係のあった当院地頭千葉秀胤は自刃し、旧領は渋谷しぶや(現神奈川県綾瀬市)庄司渋谷光重に与えられた。翌二年光重の五子(渋谷五宗)が薩摩に下向し、当院には三男吉岡三郎重保(重直)が入り渋谷氏系答院氏の祖となったとされる答院記・宮之城記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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