日本歴史地名大系 「答院」の解説
答院
けどういん
答院町・薩摩町・
康治元年(永治二年、一一四二)三月一日の大前道助譲状案(答院記)に「薩摩国
答院中津河名」とみえる。大前氏は在庁官人系の有力な在地領主で、その一族は川内川流域に勢力を張っていた。道助は大治六年(一一三一)には薩摩国在国司を称し(同年二月三〇日「薩摩国在国司大前道助請文案」東京大学国史研究室蔵後日之式条附収文書)、
答院郡司として
答院として自名・
)答院一一二町があり、平家没官領で地頭は千葉介(常胤)であった。当院のうちに
答院町
答院町
答院郡司大前師道の子道嗣で、湯田城(現宮之城町)にいたと伝える(三国名勝図会)。倉丸名の本主滝聞太郎道房も同じく大前師道の子で、
答院町史」など)。時吉の本名主在庁道友は大前道友。得末の本名主は肥後国住人江田太郎実秀とある。建保四年(一二一六)六月二八日には当院郡司大前道秀から新田宮に神馬三〇疋が寄進され(「
答院郡司大前道秀寄進状案」
答院記)、承久三年(一二二一)八月二一日には同宮の放生会雑事として
答院は御館御門から原中までの道造り、騎兵一人・競馬一疋・出馬一疋・相撲二人などを出すことが課されている(「薩摩国庁下文」旧記雑録)。寛元二年(一二四四)六月二一日付の僧忠兼申状(同書)の裏書には「
答院別納名主七郎薩摩郡内平礼石寺事」と記される。この
宝治元年(一二四七)の宝治合戦で三浦氏が滅ぶと姻戚関係のあった当院地頭千葉秀胤は自刃し、旧領は答院氏の祖となったとされる(
答院記・宮之城記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報