箕島村(読み)みのしまむら

日本歴史地名大系 「箕島村」の解説

箕島村
みのしまむら

[現在地名]有田市箕島

有田川河口北岸に位置し、東は新堂しんどう村、西は北湊きたみなと村、北は長峰ながみね山脈尾根を境に海部あま椒里はじかみさと村と接する。東番ひがしばん中番なかばん西番にしばん福島ふくしまの四小名がある。地名は当地の浄応じようおう寺蔵の大永四年(一五二四)一一月五日の日付をもつ方便法身像裏書に「阿弥陀寺下紀州在田郡蓑島」とみえるのが早い。文禄三年(一五九四)五月八日付で箕島の衛門四郎・彦兵衛・久三の三人が連署して、鳥取源右衛門に宛てた文書(「近世漁村史料の研究」所収)に、

<資料は省略されています>

とあり、沿岸海域における難船の救助態勢が箕島でも確立していた。

浅野氏による慶長六年(一六〇一)の検地時に村高六七四石余、小物成三〇石余と定められ(慶長検地高目録)、慶長一六年の加太浦より錦浦迄加子米究帳(栗本家蔵)によると、当村に課せられた加子役は二九人(代納升高三四・八石)であった(徳川氏時代には加子米高七〇石)


箕島村
みしまむら

[現在地名]岡山市箕島

妹尾せのお村の西、大内田おおうちだ山田やまだ両村の南に位置する。「日本紀略」天元二年(九七九)四月二一日条に備中国からの異物言上として、「都宇郡撫河郷箕嶋村」で形味が飯のような物が降り人民が食べたとある。

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦後、旗本花房領となったと推定され、以後同領で明治に至る(「寛政重修諸家譜」「備中村鑑」など)。寛永一五年(一六三八)の花房領徳米目録(花房文書)では高六三九石余で、徳米四一二石余、所々御給残りとして高二六七石余、徳米六九石、同村畠田の上り徳米一石五斗余とある。寛永備中国絵図には三島みしま村と記され高一千一三〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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