築地新田(読み)つきじしんでん

日本歴史地名大系 「築地新田」の解説

築地新田
つきじしんでん

[現在地名]入間市野田のだ新光しんこう

野田村の北にある。享保年間(一七一六―三六)岩淵いわぶち(現飯能市)百姓代代次郎が請負開発した新田。もとは込塚野こめづかのといわれる原野で、野田、平松ひらまつ芦苅場あしかりば(現飯能市)篠井ささい(現狭山市)四村の秣場入会地。四村は当地開発によって下肥にする秣がなくなるなど生活に支障をきたすとして幕府に開発の中止を訴願したが却下された。検地は享保一七年に行われ、規模は東西二町余・南北二町余、幕府領。元文四年(一七三九)の出百姓八。

築地新田
ついじしんでん

[現在地名]昭和町築地新居ついじあらい

築地新居村の西に位置する。築地新居村が旧釜無川の河川敷内を開発して成立したが、その時期は不明。元禄一六年(一七〇三)の検地により村高が定まったというので、甲府家領時代の成立であることは間違いない。同年の検地帳(県立図書館蔵)では上田五反余・中田九反余・下田一町一反余・下々田二反余・田二反余、上畑一反余・中畑一反余・下畑七反余・下々畑一町四反余・畑一町一反余で、屋敷地はなく、高六一石余。享保九年(一七二四)以降幕府領となったと推測され、文久二年(一八六二)頃には甲府代官支配。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報