入間市(読み)イルマシ

デジタル大辞泉 「入間市」の意味・読み・例文・類語

いるま‐し【入間市】

入間

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日本歴史地名大系 「入間市」の解説

入間市
いるまし

面積:四四・七六平方キロ

県の南部に位置し、東は所沢市、西は飯能市・東京都青梅市、南は東京都西多摩郡瑞穂みずほ町、北は狭山市。関東平野の西部にあたり、市域北部には外秩父山地から東方に半島状に突出している加治かじ丘陵、南端には武蔵野台地に孤立して狭山丘陵があり、両丘陵に挟まれて扇状地性の台地金子かねこ台が広がる。加治丘陵の北側を入間川、南側をかすみ(葛川・桂川ともいう)、金子台のなかを不老としとらず(不年取川)が東流する。東部から北部へと西武池袋線、西境近くをほぼ南北にJR八高線が通る。南西から北東へ国道一六号、ほぼ中央部を北へ国道二九九号が走るほか、主要地方道所沢―入間線、青梅―入間線が通る。台地は高度差と段丘にのっている関東ローム層によって下末吉面(金子面)、武蔵野面、立川面、低地に分れ、霞川南方の市街地は下末吉面上にある。露出する地質は飯能礫層・仏子層・豊岡礫層・関東ローム層に区分される。仏子層は加治丘陵東部に広く分布し、礫層から泥層まで五部層に分けられている。仏子層が形成された時代は気候が暖温帯から寒冷化に緩やかに変化した時期で、仏子層の露頭している箇所が多い狭山市の笹井ささいから入間市の鍵山かぎやま付近の入間川流域では、アケボノゾウの臼歯などの化石や足跡、内湾性のマキガイ、アカガイなどの貝化石、メタセコイヤの直立樹幹や材・種子などの植物化石が発見されている。

〔原始〕

遺跡は加治丘陵上とその南麓、霞川・入間川両岸、狭山丘陵北斜面などに濃密に分布し、金子台上は希薄である。霞川流域に点在する旧石器時代の遺跡を除いて縄文時代前期・中期の遺跡が中心で、弥生・古墳時代の遺跡は検出されていない。旧石器時代の遺跡は霞川右岸金子台上と左岸の加治丘陵上に集中し、一三ヵ所が確認されている。南峯みなみみね西武蔵野にしむさしの遺跡は一万二千八〇〇年以前にさかのぼる遺跡で、四ブロックから槍形尖頭器を製作した夥しい調整剥片が出土したことから、作業場であったことが判明した。縄文時代の遺跡は前期・中期が多く、早期・後期はごくわずかで、晩期と弥生時代のものは検出されていない。縄文早期後半の遺跡は金堀沢かなぼりざわII遺跡(旧豊岡中学校校庭)があり、炉穴が検出され、市域で最も古い縄文人の生活痕である。早期後半から前期前葉は気候が温暖化し、海面が上昇して東京湾が深く入組み、当市域もかなり海岸線に近接していたと思われる。この時代を示す黒浜式土器が小数検出されている。当市で最も古い縄文時代の土器は金堀沢II遺跡から撚糸文、坂東山ばんどうやま遺跡から中部地方で流行した押型文の土器などが検出されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「入間市」の意味・わかりやすい解説

入間〔市〕
いるま

埼玉県南部,武蔵野台地北西端および加治丘陵の一部を占める市。 1966年武蔵町が改名して市制。 67年西武町を編入。市街地はかつての脇往還 (日光裏街道) の宿駅扇町屋で,南は八王子や青梅方面へ,北は上州地方に通じ,近郊農村の市場町として発達。昔から農村部は狭山茶の栽培と養蚕が盛んで,製糸,織物業が早くから発達。いまも狭山茶の産地であるとともに織物,レース工業が行われる。市域南部の宮寺地区には武蔵工業団地が立地,自動車・電気機器の工場が多い。西部の JR八高線,東部の西武鉄道西武池袋線沿いの宅地化が進み,住宅団地が建設された。航空自衛隊の入間基地のほか,北部に重要文化財高倉寺 (こうそうじ) 観音堂がある。南部は狭山県立自然公園,西部は奥武蔵県立自然公園に属する。面積 44.69km2。人口 14万5651(2020)。

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