日本歴史地名大系 「簗沢村」の解説 簗沢村やなざわむら 山形県:東村山郡山辺町簗沢村[現在地名]山辺町簗沢北作(きたざく)村の南にあり、白鷹(しらたか)丘陵北部の東黒森(ひがしくろもり)山の北麓を占める。山形城下と置賜(おきたま)郡下長井地方を結ぶ狐越(きつねごえ)街道の別路、簗沢通が東西に走る。元和八年(一六二二)山形藩領、延享元年(一七四四)幕府領、同三年下総佐倉藩領となる。その後の領主の変遷については不明の点もあるが、同四年陸奥棚倉藩領、のち幕府領になったと思われる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高四三四石余。嘉永元年の(一八四八)村山郡石高帳では高三五二石(ほかに無地高一〇七石余)。白鷹山東麓にある畑谷(はたや)村御番酒(ごばんみき)清水から湧出した水流が、弁天(べんてん)清水・雷(いかずち)沢の湧水を合せて沢上(さわかみ)川となり、送橋(おくりはし)(現西村山郡朝日町)で送橋川に合流し、やがて最上川に注ぐ。 簗沢村やなざわむら 山形県:米沢市簗沢村[現在地名]米沢市簗沢入田沢(いりたざわ)村の東に位置し、鬼面(おもの)川支流綱木(つなき)川と太田(おおた)川沿いの平地と両川に挟まれた山間部に立地。戦国時代には上長井のうち。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録によれば、宮崎弥七郎が上長井「やなさハ」のうち「道明在け」を与えられている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高八六六石余、免五ツ三分、家数五五(うち役家一二、肝煎・小走四)・人数二四七、役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳によると村柄は上。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by