日本歴史地名大系 「米持村」の解説 米持村よなもちむら 長野県:須坂市米持村[現在地名]須坂市米持町現須坂市南部。北は百々(どど)川で小山(こやま)村、東は耕地で野辺(のべ)村、西は耕地で九反田(くたんだ)村、南は鮎(あい)川で幸高(こうたか)村と境す。村西部を南北に谷筋道(県道須坂―埴生線)、東部を南北に小山村屋部(やぶ)・井上(いのうえ)東部への道(県道須坂―中村線)、西方九反田村より東方野辺村へ通じる道が横断する。なお谷筋道の鮎川端より十三塚(じゆうさんづか)を通る野辺村南端への道がある。集落は中央の横断道沿いにあり、一部は谷筋道沿いにある。用水は共同井戸や百々川から引水する。水田は西部にある。百々川と鮎川の洪水被災で集落はしだいに東方高所へ移り、正徳五年(一七一五)米持神社(祭神建御名方命)を野辺村境に移す。 米持村よねもちむら 千葉県:八日市場市米持村[現在地名]八日市場市米持香取郡に属し、飯塚(いいづか)村の東に位置する。東は匝瑳(そうさ)郡春海(はるみ)村、北は秋田(あきた)村(現干潟町)。寛文年間(一六六一―七三)に行われた椿(つばき)海の新田開発によって成立した新田一八ヵ村の一。元禄八年(一六九五)に検地が行われ、同年の検地帳(椿家文書)には「飯塚村下椿新田」と記されている。同一三年頃の下総国各村級分に村名がみえ、高六三三石余、幕府領。正徳三年(一七一三)の椿新田拾八ヶ村写(蜂谷家文書)によると、反別は田方五九町八反余・畑方二町七反余、家数二(水呑百姓)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報