日本歴史地名大系 「須坂市」の解説 須坂市すざかし 面積:一五一・四三平方キロ長野県北東部千曲川右岸、東は上信火山帯の破風(はふ)岳・土鍋(どなべ)山・四阿(あずまや)山(各二〇〇〇メートル級)で、現群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまこい)村と境し、西は千曲川で現長野市長沼(ながぬま)・柳原(やなぎはら)等と境する。北は破風岳・奈良(なろう)山・明覚(めいかく)山、北折して天狗(てんぐ)山、道路境を松(まつ)川に出、松川を西折して千曲川まで、現上高井郡高山(たかやま)村・小布施(おぶせ)町と境、南は四阿山・根子(ねこ)岳で現小県(ちいさがた)郡真田(さなだ)町菅平(すがだいら)西組西北端と境。南西は、菅平西組北端・熊窪(くまくぼ)山・明徳(みようとく)山・大洞(おおぼら)山で、現長野市若穂(わかほ)地区と境する。東・南部に高く北・西に低い。土鍋山に発する灰野(はいの)川、四阿山に発する米子(よなこ)川がともに西北流して合流、市(いち)川(現百々川)となり、右岸に須坂、左岸に野辺原(のべはら)の扇状地を造る。南部山地大谷(おおや)に発する宇原(うばら)川、菅平境長(なが)やちに発する仙仁(せに)川はともに北流、合流して鮎(あい)川となり山脚を西北流して百々(どど)川に入る。百々川は千曲川沖積地を北流、千曲川に入る。北部東半は松川左岸扇状地日滝原(ひたきはら)、須坂扇状地との間に八木沢(やぎさわ)川が西流して百々川に入る。山麓線標高約五〇〇メートル、沖積地約三五〇メートル。集落は河川沿い・扇端・沖積地自然堤防上に散在、中心須坂町は明覚山西方鎌田(かまだ)山山麓、百々川・八木沢川両谷口を控え、標高四〇〇メートル前後の扇状地上に立地。須坂の名は、墨坂(すみさか)神の「墨坂」の約言と口碑にいう。墨坂神は天応元年(七八一)神封一戸を賜った高井郡の神で(新抄格勅符)、「延喜式」神名帳にも、高井郡に墨坂神社がある。現在市内に墨坂神社二社がある。〔原始〕鮎川水系では、宇原川左岸段丘上宇原に旧石器の尖頭器が出土、同上流の石小屋(いしごや)洞穴は、縄文早期初頭の微隆起線文土器・同前期遺物・弥生後期土器が出土して知られる。高所の仙仁村の菅平境キワダクボ・仁礼(にれい)村頭山(ずさ)・栗毛(くりげ)等に縄文前期土石器、仙仁村小根子(こねつこ)・細尾沢(ほそおざわ)、仁礼村新田・栃倉(とちぐら)村上原(かみはら)に中期土石器が微量出土。八町(はつちよう)村鎧塚(よろいづか)・前山(まえやま)に土石器と住居跡が知られる。百々川水系には、米子川左岸段丘上亀倉(かめぐら)村横松原(よこまつばら)に縄文後期土石器、対岸塩野(しおの)村お天神(てんじん)に晩期土石器が各微量出土。灰野川右岸灰野村中田(なかだ)・中灰野に中期土器が微量出土。八木沢水系日滝村・小河原(おがわら)村に中期土器、広範囲に黒曜石片が散在。打製石斧は、日滝原・野辺原の扇状地にも微量散在する。弥生式中・後期土器は、扇端の小山(こやま)村・塩川(しおかわ)村・須坂村・米持(よなもち)村・井上(いのうえ)村、山麓の坂田(さかだ)村等に少量出土。太型蛤刃石斧・環状石斧等、小河原村・日滝村・須坂村・八町村・米子村等に単独出土。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「須坂市」の意味・わかりやすい解説 須坂〔市〕すざか 長野県北東部,長野盆地東部を占める市。 1954年須坂町,日野村,豊洲村が合体して市制。 55年井上村と高甫村を,71年東村を編入。中心市街地の須坂は百々 (とど) 川の扇状地にあり,長野から県境の鳥居峠を経て群馬県に出る大笹街道の谷口集落として発達。明治末期からは製糸業の一中心となったが,第2次世界大戦後は電気機械工業の町に転換した。周辺の扇状地はリンゴ,ブドウ,モモなどの果樹栽培が行われる。万座温泉,白根山,菅平などの玄関口にあたる。南東に四阿山があり,市域の一部は上信越高原国立公園に属する。面積 149.67km2。人口 4万9559(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by