日本歴史地名大系 「粟野名村」の解説 粟野名村あわのみようむら 宮崎県:延岡市粟野名村[現在地名]延岡市粟野名町・柚の木田町(ゆのきだまち)・牧町(まきまち)・無鹿町(むしかまち)・中の瀬町(なかのせまち)・樫山町(かしやままち)・大門町(おおかどまち)・桜園町(さくらぞのまち)・川原崎町(かわらざきまち)岡富(おかとみ)村の北東に位置し、五ヶ瀬川の支流祝子(ほうり)川と北(きた)川とで形成された三角洲上および祝子川南岸低地に立地する。豊後街道が通る。豊後街道は延岡京口(きようぐち)門から岡富村・粟野名村・大武(おおたけ)町を経て再び当村に入り、無鹿渡を船で渡り川島(かわしま)村に至ったが、無鹿から船便で北川を遡上して八戸(やと)(現北川町)に至り、ここから陸路をとる場合が多かった。天永元年(一一一〇)一一月日の今山八幡宮御神事并祭会料米下行引付(「今山八幡宮旧記」今山八幡宮文書)に粟野とみえ、今山(いまやま)八幡宮の五月五日の流鏑馬一〇番のうちの一番、八月彼岸礼拝講僧膳、一〇月放生会の御庁夕饗膳などを負担している。永仁元年(一二九三)一一月四日、今山八幡宮の御油田に粟野の地頭代の西願が、先例なく勘料のため簡を立て、度々の神人の抗議を聞入れずかえって悪口を吐いたので、神人は祭の際に神宝振を行い、西願を逃走させた。これが神宝振の始まりという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by