日本歴史地名大系 「緒方庄」の解説
緒方庄
おがたのしよう
「和名抄」所載の大野郡緒方郷の地に成立した庄園で、郡南西部で現緒方町・
文治頃に作成され利用された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)では、当庄は西参道南側の西中門前二丈分、一殿向拝前の一殿御前甃一丈一尺を負担とあり、年月日未詳の造宇佐宮課役注文案(到津文書)では内庁が緒方庄役となっている。一方、緒方惟栄配流後当庄は鎮西奉行天野遠景の支配下に置かれたらしく、建久六年(一一九五)五月遠景が改補された際の罪科の一として当庄御封田を所従茂経に宛行ったことがあげられている(「征夷大将軍家政所下文写」益永文書)。同八年のものと思われる豊後国図田帳宇佐宮弥勒寺領抜書案(到津文書)では緒方郷三〇〇余丁・宇佐宮領二四〇余丁とある。豊後国弘安田代注進状では緒方庄の田数は二八〇町、宇佐宮領で地頭は大友兵庫頭入道殿とある。大友兵庫頭入道は大友氏三代頼泰(正安二年没)であるから、当庄地頭職は天野遠景の後鎮西奉行となった中原親能を経てその養子大友能直のものとなり、以後大友惣領家に伝えられたと考えられる。貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)にも緒方庄がみえるから、南北朝時代も引続き大友惣領家領であったことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報