天野遠景(読み)あまのとおかげ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「天野遠景」の意味・わかりやすい解説

天野遠景
あまのとおかげ

生没年不詳。鎌倉初期の武将。本姓藤原氏。景光(かげみつ)の子。伊豆国田方(たがた)郡天野(現、静岡県伊豆の国市)に住して天野を姓とし、藤内(とうない)と称した。1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の挙兵以来、頼朝に従って戦功をたて、とくに範頼(のりより)の手に属して西海平氏を追い、引き続き鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)に任ぜられ、大宰府(だざいふ)の機構にも関与して九州の経営にあたった。しかし遅くとも1194年(建久5)ごろまでにその任を解かれて鎌倉に帰り、その後、頼朝の死(1199)を機会に出家して蓮景(れんけい)と号した。1203年(建仁3)9月、北条時政(ときまさ)の命で比企能員(ひきよしかず)を斬(き)った。

[新田英治]

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改訂新版 世界大百科事典 「天野遠景」の意味・わかりやすい解説

天野遠景 (あまのとおかげ)

鎌倉前期の武将。生没年不詳。藤原景光の子。伊豆国天野に住み天野藤内と称す。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に参加,さらに源範頼に属し平家追討に功をたてた。85年(文治1)鎮西奉行として九州へ赴任。大宰府の実権を掌握し幕府権力を扶植したが,現地での彼に対する反感が高まり建久ごろ解任。頼朝の死に際し出家。法名蓮景。1203年(建仁3)北条時政に従い比企能員を謀殺晩年は不遇だったらしい。
天野氏
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天野遠景」の意味・わかりやすい解説

天野遠景
あまのとおかげ

鎌倉時代初期の御家人。藤原景光の子。通称藤内。伊豆田方郡天野に住み,天野を氏とした。民部丞。法名蓮景。治承4(1180)年8月,源頼朝に従って石橋山の戦いに加わった。元暦1(1184)年6月,命によって一条忠頼を殺し,同年 8月,源範頼に従って西海に赴き,翌年正月,豊後に渡った。文治1(1185)年,鎮西奉行となり,源義経および平氏残党の追捕と,鎮西の地頭御家人の統率にあたった。正治1(1199)年10月,すでに出家していたが,梶原景時排斥運動に加わり,さらに建仁3(1203)年9月,北条時政の命により,北条氏を除こうとはかっていた比企能員を時政邸におびき寄せて殺した。

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朝日日本歴史人物事典 「天野遠景」の解説

天野遠景

生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。鎮西奉行人。藤原景光の子。伊豆国(静岡県)天野に居住したところから天野を姓とし,天野藤内,伊豆藤内などと称した。内舎人,左衛門尉,民部丞。治承4(1180)年8月源頼朝が伊豆で挙兵したとき以来,頼朝側近の武将として活躍した。文治1(1185)年末に鎮西奉行人として九州に赴き,平家の勢力が強かった九州を鎌倉幕府の支配下に組み入れることに努めた。宇都宮信房と共に鬼界島の平家残党の追討も企てている。しかし鎮西奉行人としての遠景の政策に対する鎮西御家人,荘園領主らの反発によって,建久5(1194)年ごろその職を解かれ,鎌倉に帰ったが,晩年は不遇であった。頼朝の死後出家して蓮景と称した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』

(瀬野精一郎)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天野遠景」の解説

天野遠景 あまの-とおかげ

?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。
治承(じしょう)4年(1180)源頼朝が挙兵したときからの側近のひとり。源範頼(のりより)に属して平家追討に功をたて,文治元年鎮西(ちんぜい)奉行となる。のち鎌倉にかえり,建仁(けんにん)3年北条時政の命をうけて比企能員(ひき-よしかず)を殺害した。伊豆(いず)田方郡(静岡県)出身。本姓は藤原。通称は藤内。法名は蓮景。

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旺文社日本史事典 三訂版 「天野遠景」の解説

天野遠景
あまのとおかげ

生没年不詳
鎌倉時代の武将
伊豆田方郡天野に住み,天野を姓とした。1180年源頼朝の挙兵に参加,石橋山の戦いに加わり,のち源範頼 (のりより) に従って平氏を西海に追討。その功により初代鎮西奉行に任じられ,九州御家人の統率と軍事警察の任務をつかさどった。

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世界大百科事典(旧版)内の天野遠景の言及

【天野氏】より

…伊豆国田方郡天野郷を本領とし,伊豆の雄族工藤氏の分流入江景澄の子景光が天野を称したのに始まるという。景光の子天野遠景は1180年(治承4)の挙兵以来源頼朝に従ってその側近となり,さらに源範頼軍に属して平家追討のため西国に下向,85年(文治1)鎮西奉行人となって九州大宰府に移り,鎌倉幕府による九州支配の現地代行者となった。したがって天野氏は九州にも所領を得ているが,遠景が10年足らずで任を解かれたこともあって九州には根をおろさず,その子孫は武蔵,遠江,美濃,能登等の所領を分領することになる。…

【鎮西奉行】より

…後者の場合,鎮西奉行人,鎮西守護人ともいう。1185年(文治1)末,源頼朝は九州支配のために鎮西奉行として伊豆国御家人(ごけにん)天野遠景(あまのとおかげ)を派遣した。当初の任務は源義経の探索と鎮西御家人の非法狼藉の停止などであったが,遠景は九州全体におよぶ武士統轄権を有していた。…

※「天野遠景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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