鎌倉幕府の九州統治機関,またその機関の長。後者の場合,鎮西奉行人,鎮西守護人ともいう。1185年(文治1)末,源頼朝は九州支配のために鎮西奉行として伊豆国御家人(ごけにん)天野遠景(あまのとおかげ)を派遣した。当初の任務は源義経の探索と鎮西御家人の非法狼藉の停止などであったが,遠景は九州全体におよぶ武士統轄権を有していた。また大宰府の実権をも掌握し,府官と連署して,鎌倉殿の下文(くだしぶみ)の施行,御家人への地頭職(しき)の安堵(あんど),御家人間の相論の裁許などを行っている。87年末には義経探索の目的もあって貴海島(鬼界ヶ島)の追討を企てたが鎮西御家人は協力せず,93年(建久4)から95年の間に遠景は解任された。遠景ののち鎮西奉行が廃絶したか連続したかについては,遠景で廃絶したという説,武藤氏(少弐氏)を遠景の後任とする説,武藤資頼,中原親能を遠景の後任とし,武藤氏,大友氏の両奉行によって世襲されたという説があり,定説をみていない。
→鎮西談議所 →鎮西探題
執筆者:佐伯 弘次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉幕府が九州統轄のため設置した職。鎮西守護ともいう。1185年(文治1)源頼朝(よりとも)が天野遠景(あまのとおかげ)を九州に派遣して同地方の御家人(ごけにん)を統轄させたのが起源。その任務は初め平家の残党、源義経(よしつね)与党の追捕(ついぶ)にあったが、のちには鎮西御家人の統率が任とされた。また鎮西奉行は大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府(だざいふ)市)を押さえ、大宰府の機能を掌握することによって九州全般にわたってその任務を遂行した。遠景は1191~96年(建久2~7)の間に鎌倉に帰り、中原親能(なかはらちかよし)、ついで武藤資頼(むとうすけより)がこれにかわった。武藤氏は大宰府現地の長官である少弐(しょうに)に就任、以後世襲して少弐氏を称するようになる。しかし、九州諸国に守護が補任(ぶにん)され、御家人統率の権限は守護の手に移るようになり(少弐氏自ら三国二島の守護であった)、鎮西奉行(守護人)としての権限は縮小された。元寇(げんこう)以後、別に幕府によって、九州の御家人の統轄機関として特殊合議機関、ついで鎮西談議所、鎮西探題(たんだい)が設置されるに及び、その機能は大幅に失われた。しかし鎮西談議所設置後も大友氏が東方奉行、少弐氏が西方奉行として元寇恩賞の奉行をしているところから、この時代なお同職が両氏の世襲として存続したことが認められる。
[五味克夫]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
鎮西九国奉行とも。鎌倉幕府が設置した最初の鎮西統治機関およびその長官。初代は1185年(文治元)に任じられた天野遠景。直接の目的は逃亡中の源義経の捜索にあった。鎮西御家人を統轄するとともに,大宰府の実権も握った。遠景の解任後は,廃絶説,中原親能就任説,武藤資頼就任説,武藤・大友両氏就任説などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新