…兵役後《懺悔(ざんげ)の刃》(1927)で監督に転じ,斎藤寅二郎らとハリウッド喜劇流のギャグを連発,B級ナンセンス映画の監督として地位を築く。しかし一流スターやスタッフを使うことができず,大学生の風俗をユーモラスに描くのを得意としたが,同世代の俳優斎藤達雄や岡田時彦を得て野心作《美人哀愁》(1931)を発表,カメラの茂原英雄とともに独自の映像を確立。《東京の合唱》(1931)や《生れてはみたけれど》(1932)などのサラリーマン生活の悲哀を描いた作品で高く評価される。…
※「美人哀愁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」