肥前藩(読み)ひぜんはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「肥前藩」の意味・わかりやすい解説

肥前藩
ひぜんはん

佐賀藩鍋島藩ともいう。江戸時代,肥前国佐賀地方 (佐賀県) を領有した藩。藩祖鍋島直茂で,肥前の豪族龍造寺氏の家臣であったが,龍造寺氏の衰えに乗じて勢力を伸ばし天正 18 (1590) 年に豊臣秀吉から肥前国を与えられた。さらに文禄・慶長の役に大功を立て,関ヶ原の戦いでは東軍に属して所領を安堵され,35万 7000石を領有した。その子勝茂の代の慶長 15 (1610) 年に弟忠茂に2万石 (同国鹿島藩) ,同 19年に長男元茂に7万 3200石 (同国小城藩) ,寛永 13 (36) 年に5男直澄に5万 2600石 (同国蓮池藩) をそれぞれ分与して支藩を創設したが,表高 35万 7000石を改めず廃藩置県にいたった。長崎御番などの任にあたったが,財政負担も多大で,早くから藩財政は窮乏した。しかし天保1 (1830) 年に襲封した直正が藩政改革を行い,洋式兵備の充実をはかり幕末諸藩にあって最も強力な軍事力をつくりあげて討幕派の中心勢力の1つとなり,大隈重信江藤新平副島 (そえじま) 種臣らの人材を明治新政府に送り込んだ。外様,江戸城大広間詰。

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旺文社日本史事典 三訂版 「肥前藩」の解説

肥前藩
ひぜんはん

江戸時代,肥前(佐賀県)佐賀地方を領した外様藩
佐賀藩ともいう。藩主鍋島 (なべしま) 氏。藩祖鍋島直茂 (なおしげ) は,1590年竜造寺隆信に代わってこの地を支配し,石高35万7000石,長崎警固の任にあたった。藩財政は享保年間(1716〜36)から窮乏し,1801年藩主治茂が財政の立て直しをはかったが,'08年フェートン号事件で幕府から処罰されたのちは特に窮迫した。藩主直正は,封建的農村秩序の再編成(均田制),殖産興業による財政収入の増加(陶磁器の専売制),反射炉など洋式軍事工業の開設につとめた。尊王攘夷運動には消極的態度を示したが,維新政府では,大隈重信・江藤新平・大木喬任 (たかとう) ・副島種臣 (そえじまたねおみ) らが活躍し,藩閥勢力を形成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「肥前藩」の意味・わかりやすい解説

肥前藩
ひぜんはん

佐賀藩

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デジタル大辞泉プラス 「肥前藩」の解説

肥前藩

肥前国、佐賀(現:佐賀県佐賀市)を本拠地とした佐賀藩の別称

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藩名・旧国名がわかる事典 「肥前藩」の解説

ひぜんはん【肥前藩】

佐賀藩(さがはん)

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