大木喬任(読み)おおき たかとう

美術人名辞典の解説

大木喬任

幕末・明治の佐賀藩士・政治家伯爵。通称は幡六・民平、号は其次斎。藩校弘道館に学び、幕末勤王派として活躍。維新後に参与・東京府知事に就任。以後民部卿・文部卿参議兼司法卿・参議兼元老院議長などを歴任。第一次松方内閣文相を務めたのち、枢密院議長再任。明治32年(1899)歿、68才。

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百科事典マイペディアの解説

大木喬任【おおきたかとう】

明治の政治家。佐賀藩士出身。明治政府に仕え,江藤新平とともに東京遷都を建議し,東京府知事。のち初代文部卿となり学制発布に尽力,1873年司法卿となって萩の乱神風連の乱では現地で処刑の任に当たる。以後民法編纂総裁,元老院議長,枢密院議長,法相,文相等を歴任。
→関連項目東京遷都

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大木喬任 おおき-たかとう

1832-1899 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)3年3月23日生まれ。もと肥前佐賀藩士。藩校弘道館にまなび,勤王派として活躍した。維新後徴士となり,京都府判事,軍務官判事を歴任。江藤新平らとともに東京遷都を実現させる。東京府知事,法相,文相,枢密院議長などをつとめた。明治32年9月26日死去。68歳。通称は幡六,民平。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大木喬任

没年:明治32.9.26(1899)
生年:天保3.3.23(1832.4.23)
明治期の官僚,政治家。父は佐賀藩士大木知喬。嘉永3(1850)年同藩国学者枝吉神陽を中心に神陽の弟二郎(のちの副島種臣),江藤新平らと共に,佐賀城外に楠木正成・正行父子の甲冑像を安置し,義祭同盟と称した。尊王論を唱え藩政改革を提唱したが,藩主鍋島直正の親幕的態度のため改革派は主流にはなれなかった。維新後,徴士となり参与職外国事務局判事,京都府判事,軍務官判事などに任じられた。その間,江藤新平と共に東京遷都を岩倉具視輔相に建言し,明治1(1868)年9月の天皇御東幸に随行している。同年12月東京府知事。その後,4年7月文部卿に就任し,5年学制を頒布した。6年4月参議,同10月司法卿に就任したが,征韓論には反対の立場をとった。9年の萩,神風連,秋月の乱には,平定後現地に出張し裁判処理に当たっている。その後,文部卿(のち大臣),元老院議長,枢密院議長などを歴任したが,誠実,廉潔,篤学な人柄のため,大きな政治力を有することはなかった。藩閥政府の中で副島種臣と共に肥前出身者の代表格として顕職をあてがわれた。第1議会には貴族院議長候補者として名前が挙げられたが,結局山県有朋首相の懇請により伊藤博文がその職に就いている。17年華族令により伯爵。25年12月枢密院議長を辞し,麝香間祗候となる。<参考文献>「大木喬任文書」(国立国会図書館憲政資料室)

(長井純市)

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世界大百科事典 第2版の解説

おおきたかとう【大木喬任】

1832‐99(天保3‐明治32)
明治時代の政治家。佐賀藩出身。通称幡六,のち民平。藩校弘道館に学び藩内勤王派として活動,1868年閏4月徴士として新政府に出仕,参与,外国事務局判事などを歴任する。同年9月,江藤新平とともに東京遷都を建議し,東幸に供奉を命ぜられる。同年12月,東京府知事を兼務した。70年民部大輔,71年民部卿,のち初代文部卿となり近代教育制度の基礎を築いた学制の発布に尽力し,また教部卿を兼任した。73年参議となり征韓論に反対し,大久保利通政権では参議兼司法卿として活躍,76年の萩の乱,神風連の乱後現地で処刑を指揮した。

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大辞林 第三版の解説

おおきたかとう【大木喬任】

1832~1899) 政治家。佐賀藩士。通称、幡六・民平。東京府知事。参議。のち、元老院議長・枢密院議長・法相・文相などを歴任。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大木喬任
おおきたかとう

[生]天保3(1832).3.23. 佐賀
[没]1899.6.26. 東京
官僚,政治家。幕末の頃勤王論を唱え,新政府誕生後は明治政府に出仕。明治1 (1868) 年外国事務局,京都府,軍務官の各判事,さらに東京府知事などを次々につとめた。翌同2年7月東京府大参事を経て,同 11月には東京府権知事に任じられたが,過分の措置として辞退,大参事をそのままつとめた。同3年民部大輔,同4年民部卿に就任した。民部省が廃止されて文部省が創設されるのに伴い文部卿となり,学制の施行に努力。翌同5年教部卿を兼任。 1873年4月参議となり,10月司法卿を兼ね,士族の反乱 (萩,秋月の乱) の司法処理に力を注いだ。その後 80年4月民法編纂局総裁を命じられ法典整備に尽力した。同年 10月司法卿,83年文部卿,85年元老院議長,88年枢密顧問官,89年枢密院議長の要職を歴任。その後,山県有朋内閣では山田顕義の後任として2ヵ月の短期間ながら司法相に就任,91年第1次松方正義内閣では文相となった。 92年再び枢密院議長。温厚,緻密な性格で,佐賀藩出身でありながら薩,長両藩出身の政治家に重用された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大木喬任
おおきたかとう
(1832―1899)

明治時代の政治家。伯爵。佐賀藩出身。幕末に尊王を唱え同志とともに藩内改革を推進した。明治維新後、徴士(ちょうし)となり、さらに参与として東京府知事を兼任、1870年(明治3)民部大輔(たいふ)、翌年民部卿(きょう)、さらに文部卿に転じて学制の施行に努めた。1873年参議となり、やがて司法卿を兼ね、士族反乱の処理にあたる。1880年元老院議長を兼任、国粋的な内容の憲法意見を提出している。のち文部卿、元老院議長再任、枢密院議長などの要職を歴任、1891年には松方正義(まつかたまさよし)内閣の文相として入閣、翌年辞任後ふたたび枢密院議長となった。円満篤実な人柄のため薩長(さっちょう)両藩出身政治家ともよく協調し、佐賀藩出身政治家の代表として重きをなした。[宇野俊一]

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世界大百科事典内の大木喬任の言及

【秋月の乱】より

…福岡臨時裁判所(裁判長巌谷竜一)は,12月3日,捕縛された384名のうち,今村と益田静方の2名を斬罪に処し,19名を除族懲役,124名を除族,1名に贖金(あがないきん)を命じたほかは無罪とした。当時,西下した司法卿大木喬任(たかとう)も,この判決の場に列席し,政府の権威を示した。【田中 彰】。…

【学制】より

…1871年廃藩置県直後に創設された文部省は,日本の近代化の早急な実現をめざす基本的手段の一つとして,まず全国規模での学校制度の立案を計画し,71年12月箕作麟祥ら洋学者を中心とする12人の〈学制取調掛〉を任命し,翌72年1月には大綱を決め3月下旬案文をととのえて太政官に上申し,6月下旬にその決裁を得て,8月3日文部省布達をもって最初の109章(条)を公布し,以後73年7月までに全213章を公布した。太政官での文部省上申案の審議をめぐり,岩倉使節団の訪欧米中に重大な国内改革をすべきでないとする井上馨,板垣退助らと,一挙に〈学制〉の公布をめざす大隈重信,大木喬任らとの対立があり,また太政官の裁可後も教育への国庫補助金額をめぐって大蔵・文部両者の折合いがつかず,2ヵ月延長したうえ,該当条文字句を欠字のまま公布をみた。このように,きわめて短時日のうちに起草され,政府部内での対立を含んだままで制定されたのである。…

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