(長井純市)
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明治時代の政治家。佐賀藩出身。通称幡六,のち民平。藩校弘道館に学び藩内勤王派として活動,1868年閏4月徴士として新政府に出仕,参与,外国事務局判事などを歴任する。同年9月,江藤新平とともに東京遷都を建議し,東幸に供奉を命ぜられる。同年12月,東京府知事を兼務した。70年民部大輔,71年民部卿,のち初代文部卿となり近代教育制度の基礎を築いた学制の発布に尽力し,また教部卿を兼任した。73年参議となり征韓論に反対し,大久保利通政権では参議兼司法卿として活躍,76年の萩の乱,神風連の乱後現地で処刑を指揮した。80年参議専任となるが,81年明治14年の政変以後ふたたび兼任,以後文部卿,元老院議長,枢密院議長(2度),山県有朋内閣の法相,第1次松方正義内閣の文相を歴任。伯爵。
執筆者:田村 貞雄
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明治時代の政治家。伯爵。佐賀藩出身。幕末に尊王を唱え同志とともに藩内改革を推進した。明治維新後、徴士(ちょうし)となり、さらに参与として東京府知事を兼任、1870年(明治3)民部大輔(たいふ)、翌年民部卿(きょう)、さらに文部卿に転じて学制の施行に努めた。1873年参議となり、やがて司法卿を兼ね、士族反乱の処理にあたる。1880年元老院議長を兼任、国粋的な内容の憲法意見を提出している。のち文部卿、元老院議長再任、枢密院議長などの要職を歴任、1891年には松方正義(まつかたまさよし)内閣の文相として入閣、翌年辞任後ふたたび枢密院議長となった。円満篤実な人柄のため薩長(さっちょう)両藩出身政治家ともよく協調し、佐賀藩出身政治家の代表として重きをなした。
[宇野俊一]
1832.3.23~99.9.26
幕末期の佐賀藩士,明治期の藩閥政治家。義祭同盟に参加し佐賀藩で勤王運動に従事。維新後に参与・東京府知事などを務め,東京遷都に功があった。民部卿・文部卿・参議兼司法卿・参議兼元老院議長などを歴任,枢密顧問官をへて1889年(明治22)枢密院議長。第1次松方内閣で文相,同内閣退陣後に一時枢密院議長に復した。伯爵。
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…福岡臨時裁判所(裁判長巌谷竜一)は,12月3日,捕縛された384名のうち,今村と益田静方の2名を斬罪に処し,19名を除族懲役,124名を除族,1名に贖金(あがないきん)を命じたほかは無罪とした。当時,西下した司法卿大木喬任(たかとう)も,この判決の場に列席し,政府の権威を示した。【田中 彰】。…
…1871年廃藩置県直後に創設された文部省は,日本の近代化の早急な実現をめざす基本的手段の一つとして,まず全国規模での学校制度の立案を計画し,71年12月箕作麟祥ら洋学者を中心とする12人の〈学制取調掛〉を任命し,翌72年1月には大綱を決め3月下旬案文をととのえて太政官に上申し,6月下旬にその決裁を得て,8月3日文部省布達をもって最初の109章(条)を公布し,以後73年7月までに全213章を公布した。太政官での文部省上申案の審議をめぐり,岩倉使節団の訪欧米中に重大な国内改革をすべきでないとする井上馨,板垣退助らと,一挙に〈学制〉の公布をめざす大隈重信,大木喬任らとの対立があり,また太政官の裁可後も教育への国庫補助金額をめぐって大蔵・文部両者の折合いがつかず,2ヵ月延長したうえ,該当条文字句を欠字のまま公布をみた。このように,きわめて短時日のうちに起草され,政府部内での対立を含んだままで制定されたのである。…
※「大木喬任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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