佐賀藩(読み)さがはん

改訂新版 世界大百科事典 「佐賀藩」の意味・わかりやすい解説

佐賀藩 (さがはん)

肥前国佐賀県)佐賀に藩庁を置いた外様大藩。戦国期に肥前地域は竜造寺隆信が一応支配したが,1584年(天正12)の島原での敗死により,竜造寺氏から鍋島氏へと実権が移った。鍋島直茂は実権確立に際して豊臣秀吉徳川家康との関係を強め,統一権力の力を利用しながら領内の統御を進めた。関ヶ原の戦では西軍に属したため,戦後不利な立場に置かれたが,閑室元佶のとりなしにより筑後柳河の立花宗茂の攻撃などを条件に領土が安堵された。直茂の子の勝茂は幕府への忠勤と藩体制の確立に努めた。慶長(1596-1615)10年代後半に領内検地を行い,それを基にして1611年1月に家臣への知行配分を行った。この知行宛行は地方(じかた)知行を基軸にし,また物成知行制で,以後この知行制が明治初年までの基軸をなした。勝茂は蔵入地の拡大政策をとり,11年と21年(元和7)の2回にわたって家臣から30%の上地(あげち)を行わせた。この上地を基礎にして支藩の小城(おぎ)藩,鹿島藩,蓮池藩が設けられたが,これら支藩の石高は佐賀本藩の石高35万7036石に包含されたものであった。年貢徴収体系も慶長検地の段階で整えられるが,それは1反当りの年貢高を基軸にしたもので,これを佐賀では〈地米〉と称した。この地米制が年貢と知行の基礎をなした。

 明暦(1655-58)初年には藩法〈鳥ノ子帳〉が集大成され,以後これが佐賀藩の祖法となった。2代藩主光茂の代に本支藩関係の矛盾が顕現化したが,本藩の主導性を確認した〈三家格式〉が83年(天和3)2月に制定され,家督,官位,隠居などは本藩から幕府に願い出ることとなった。1732年(享保17)に西国地域はウンカの大量発生で大凶作となり,佐賀藩領内の餓死者は8万人に達したといわれ,このため藩主宗茂は幕府より逼塞の処分を受けた。享保の飢饉以降藩財政の窮乏が進み,藩政の運営が困難になってきたので,72年(安永1)4月に藩政の改革が着手された。改革の基本政策は年貢米を中軸にした藩政の運営に置かれたが,藩法〈鳥ノ子帳〉の主旨に基づく運営としながらも,藩領内の自足体制の維持がはかられた。このため,諸物産蕃育の殖産政策が推進され,その機構として六府方(山方,牧方,陶器方,搦方,貸付方,講方)が設けられた。また81年(天明1)9月に藩校弘道館を設け,儒学教育の家中への浸透が強められた。この藩政改革で藩財政は一時的に改善したが,文化・文政期(1804-30)には膨大な借金をかかえて行き詰まった。1808年(文化5)8月のフェートン号事件によって長崎警衛の弱体ぶりが明白になり,幕府から処分を受けた。

 領内では郷村が零落し商人の土地保有が進行した。このため,鍋島直正により改革が着手された。改革は当初郷村復興に重点が置かれ小作料納入猶予がとられたが,さらに土地を小作人に配分する政策が断行され,郷村復興費もかなり支出され,また藩借銀の整理が推進された。これらによって藩財政は一応安定化してきた。外圧への対応のため長崎警衛の体制を強固にするため軍事改革に重点を置いた施策が行われた。50年(嘉永3)10月に佐賀築地に反射炉を建設し大砲の鋳造を開始した。大砲の鋳造は蘭書の翻訳,鋳工や刀工の経験などが総合的に活用され,52年に実用に耐える鋳立ができるようになった。翌年8月には幕府から鉄製大砲の鋳造を依頼されたように,反射炉による大砲鋳造は効果を発揮しだした。一方,59年(安政6)には海軍所を設け海上警備の体制を強めたが,さらに蒸気鑵の製造にまで着手するようになった。63年(文久3)には木製外輪10馬力の小蒸気船の製造を開始した。これら藩営工業の資金調達のために代品方が設けられ,藩内の蠟や石炭が貿易品として活用された。また外国から銃砲の購入も積極的に行い,これが戊辰戦争で威力を発揮し維新変革での政治的立場を強化する要因になった。71年(明治4)の廃藩置県によって藩は解体した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐賀藩」の意味・わかりやすい解説

佐賀藩
さがはん

肥前(ひぜん)藩ともいう。肥前国佐賀を領した外様(とざま)大藩。石高(こくだか)35万7000石余。1590年(天正18)戦国大名龍造寺(りゅうぞうじ)氏が豊臣(とよとみ)秀吉から所領安堵(あんど)されたのに始まり、重臣鍋島直茂(なべしまなおしげ)が主家の後見となる。1607年(慶長12)龍造寺氏断絶により、鍋島氏が藩主となった。以来、勝茂(かつしげ)、光茂(みつしげ)、綱茂(つなしげ)、吉茂(よししげ)、宗茂(むねしげ)、宗教(むねのり)、重茂(しげもち)、治茂(はるしげ)、斉直(なりなお)、直正(なおまさ)、直大(なおひろ)の12代続いた。支藩に小城(おぎ)藩、蓮池(はすのいけ)藩、鹿島(かしま)藩がある。明暦(めいれき)期(1655~58)に藩法「鳥子(とりのこ)帳」が編纂(へんさん)され、以後、それが藩政の基軸をなした。また、長崎に近接しているため、長崎御番などの任にあたり特殊な位置を占めた。それゆえ、藩財政は早くから窮乏をみせた。

 1732年(享保17)の西国地域の飢饉(ききん)の被害は佐賀藩ではとくにひどかった。1731年の領内総人口37万1956人が、1734年には29万0210人に激減したのも、飢饉の影響とみられる。1772年(安永1)に開始された藩政改革により「明和(めいわ)御改正記録」が編纂され、より詳細な藩法が作成された。この藩政改革のおりに設置された六府方(ろくふかた)(山方里山方(やまかたさとやまかた)、牧方、陶器方、搦(からみ)方、貸付方、講(こう)方)は殖産興業の基本的役方となった。

 文化・文政期(1804~30)に深まった矛盾を緩和するため、1842年(天保13)に加地子(かじし)(小作料)を10か年間猶予する政策が出されるなどの藩政改革が実施される。当初は藩借銀の整理や郷村復興に力が注がれるが、1844年(弘化1)に火術方を設置したように、軍事改革に重きが置かれるようになる。1850年(嘉永3)に築地(ついじ)(佐賀市長瀬町)に反射炉を築造し、大砲の鋳造を開始する。また、1858年(安政5)には海軍所を設け、翌年には精煉(せいれん)方で火薬製造に着手し、1865年(慶応1)には蒸気船凌風(りょうふう)丸を完成させる。このように、佐賀藩が行った軍事改革は諸藩をぬきんでるものであったが、改革の主導権が藩主鍋島直正にあっただけに、政治路線では反幕府としての立場に一定の限界がみられた。明治初年に江藤新平(しんぺい)や大隈重信(おおくましげのぶ)が維新政府のなかで重い役割を演じた。なお、藩士修養の書として知られる『葉隠(はがくれ)』は、3代藩主光茂の書物役であった山本常朝の談話を筆録したものである。また、幕末に劇化された「猫騒動」は、藩政初期における龍造寺家再興運動を反映している。1871年(明治4)廃藩。佐賀県、伊万里(いまり)県、佐賀県、三潴(みずま)県、長崎県を経て現在の佐賀県となった。

[長野 暹]

『藤野保編『佐賀藩の総合研究』(1981・吉川弘文館)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

藩名・旧国名がわかる事典 「佐賀藩」の解説

さがはん【佐賀藩】

江戸時代肥前(ひぜん)国佐賀郡佐賀(現、佐賀県佐賀市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は弘道館。1607年(慶長(けいちょう)12)、戦国大名の竜造寺氏断絶に伴い、その重臣であった鍋島直茂(なべしまなおしげ)が実権を握って主家の所領約35万7000石を継承した。この佐賀藩の成立期に起きた御家騒動(鍋島騒動)は有名。以後、鍋島氏の支配は明治維新まで12代続き、その間に支藩として小城(おぎ)藩、鹿島藩、蓮池藩が設けられた。42年から長崎警備を福岡藩とともに1年交代で担当したが、そのための財政負担が重く、1732年(享保(きょうほう)17)の享保の飢饉で多数の餓死者を出したことを契機に藩財政は窮乏した。1808年(文化5)のフェートン号事件によって長崎警備の弱体化が露呈し、幕府から処分を受けた。11代藩主の直正(なおまさ)は、役人の削減や小作料の支払猶予・免除、陶器・茶・石炭などの殖産興業による藩政改革に取り組み、財政の改善をはかった。また西洋の軍事技術の導入を進め、50年(嘉永(かえい)3)に反射炉を建設して艦隊用の大砲(アームストロング砲)の鋳造を開始、さらに蒸気機関の製造にも着手し、65年(慶応(けいおう)1)には蒸気船を完成するに至った。こうした政策によって、幕末には国内屈指の軍事力を有する雄藩となった。大隈重信(おおくましげのぶ)江藤新平(えとうしんぺい)副島種臣(そえじまたねおみ)佐野常民(さのつねたみ)らを輩出。71年(明治4)の廃藩置県で佐賀県となり、その後、伊万里(いまり)県、佐賀県、三潴(みづま)県、長崎県を経て、83年に現在の佐賀県となった。◇肥前藩、鍋島藩ともいう。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

百科事典マイペディア 「佐賀藩」の意味・わかりやすい解説

佐賀藩【さがはん】

肥前(ひぜん)藩・鍋島(なべしま)藩とも。肥前国佐賀に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は天正(てんしょう)期(1573年―1592年)以来実権を握っていた鍋島氏が在封。領知高35万7000石。長崎御番の任にあったが,1808年フェートン号事件でその責を咎められた。その後長崎警衛体制強化のため軍事改革に取り組み,大砲の鋳造,海軍所の開設などにより諸藩中最大の軍事力を持ち,明治維新での政治的立場を高めた。佐賀城跡の鯱の門と続櫓は重要文化財。
→関連項目長崎路鍋島氏鍋島騒動三重津海軍所跡

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐賀藩」の解説

佐賀藩
さがはん

肥前藩とも。肥前国佐賀(現,佐賀市)を城地とする外様大藩。1584年(天正12)領主の竜造寺隆信が島津・有馬両氏連合軍との戦いで敗死し,重臣鍋島直茂に実権が移動。関ケ原の戦で西軍に属したが,徳川家康の命による筑後国柳河の立花宗茂攻めの功により旧領が安堵され,直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を継ぐかたちで鍋島佐賀藩が成立,以後11代にわたる。藩領は肥前国10郡のうち35万7000石余。藩成立の事情から竜造寺系家臣の勢力が強く,1611年(慶長16)と21年(元和7)の2度にわたり家臣から三部上地(知行地の30%召上)を行い,これをもとに小城(おぎ)・蓮池(はすのいけ)・鹿島の3支藩や白石鍋島家などの一門を創設した。長崎警備を福岡藩と隔年で勤めたが,財政負担も多大で,新田開発を行う一方,家中御馳走米・米筈(こめはず)(藩札)発行・大坂からの借銀をくり返す。フェートン号事件では長崎警備の不備をつかれ,藩主斉直(なりなお)は逼塞(ひっそく)を命じられた。しかしその子直正は借銀の7割5分献金,均田法による小作貧農層分解阻止,陶器・蝋・石炭の専売や外国輸出などで藩財政を強化。洋式軍事工業を導入して諸藩中屈指の軍事力を保持し,維新後の明治政府のなかで地位を高めた。詰席は大広間。藩校弘道館。廃藩後は佐賀県となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「佐賀藩」の解説

佐賀藩

肥前国、佐賀(現:佐賀県佐賀市)を本拠地とした外様の大藩。戦国大名の竜造寺氏が豊臣秀吉により旧領を安堵されたことに始まるが、重臣の鍋島氏に実権が渡ったことで、御家騒動(鍋島騒動)が勃発。のちに歌舞伎や講談の題材となり、“化け猫騒動”として知られるようになった。支藩に小城(おぎ)藩、鹿島藩、蓮池藩がある。鍋島氏の支配は12代にわたり続き、廃藩置県を迎えた。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「佐賀藩」の解説

佐賀藩
さがはん

肥前藩

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐賀藩」の意味・わかりやすい解説

佐賀藩
さがはん

肥前藩」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の佐賀藩の言及

【有明海】より

…柳河藩では,五給人開,矢島開,惣左衛門開と開名がついた干拓地が多く,その主体は藩,家臣,豪農で,商人が資金提供などで間接的に参与して行われ,十六町開,六丁開といったように比較的中規模のものが多かった。佐賀藩では,庄右衛門搦,二十人搦,孫十搦など搦と称した干拓地が多く,おもに農民が行ったが,規模は零細で舫(もあい)組織によって進められた場合が大半である。佐賀藩での干拓工事は泥土の堆積を有効に活用した方式だった。…

【均田制度】より

…均田とは土地を平等に分けて均等にすることであり,〈おのれ田なくて,豪民の田をかりて田つくる……民みなおのが田をつくりて,年貢をひとかたに出すやうにぞあらまほしき,それは均田の法にまさることあらじとぞ思ふ〉(中井履軒《均田茅議》)と地主的土地保持の改革は近代以前にも思考された。均田政策とよばれるものは1664年(寛文4)対馬藩の寛文改革にもあるが,大々的に地主の土地処分と分給を行ったのは佐賀藩である。衰微した郷村を復興するため1842年(天保13)12月に蔵入地では10年間借銀と加地子米(小作料)の支払を猶予する政策を出し,さらに農商分離を進めるため45年(弘化2)に農民の商業活動を禁止した。…

【佐賀[市]】より

…市域は筑紫平野西部の佐賀平野中央部にあり,西端を嘉瀬川が南流し,北端が脊振(せふり)山地にかかり,南端がわずかに有明海に臨む。市街地は,佐賀藩万7000石の旧城下町で,佐賀平野独特のクリーク(堀)の多い沖積低地に広がり,嘉瀬川水系の水が,多布施(たふせ)川を経て,市街地の掘割や城濠に入り込む。一方,有明海の満潮時には,海水が本庄江(ほんじようえ),八田江(はつたえ),佐賀江などの江湖(えご)(干潟の中の細長い入江)を逆流し,市街地南部に迫る。…

【長崎警衛】より

…江戸時代に長崎の警備のため近隣諸藩に課された幕府軍役。一般には1641‐1864年(寛永18‐元治1)に長崎港口の西泊,戸町の沖両番所を1年交代で受け持った福岡藩,佐賀藩の警備をいう。長崎奉行はおおむね2000~3000石以下の旗本で,家臣団を含め外事案件に対処できる軍事力は持たなかったので,1614年(慶長19)の市内の教会破壊に際しては肥前5藩の兵員を徴し,その後も停泊中の南蛮船の警備やキリシタンなど外事犯の拘禁,島原の乱時の市中警固は隣接の大村藩が担当した。…

【鍋島氏】より

…近世大名。佐賀藩主。肥前国佐賀郡本庄村の土豪に出自する。…

【鍋島騒動】より

…江戸時代,佐賀藩成立をめぐる巷説。これを取り上げた物語に《肥前佐賀二尾実記》(発行年不明)や《嵯峨奥猫魔草紙(さがのおくねこまたぞうし)》(1854),歌舞伎狂言に《花埜嵯峨猫魔稿(はなのさがねこまたぞうし)》(1853年初演の予定であったが佐賀藩の抗議で中止)や《百猫伝手綱染分(ひやくみようでんたづなのそめわけ)》(1864初演)がある(猫騒動物)。…

【成富兵庫】より

…近世初期,佐賀藩の治水家。名は茂安。…

【藩営マニュファクチュア】より

…たとえば薩摩藩では,幕末の深刻な対外危機に対処するため藩主島津斉彬を中心に藩政改革を実施し,その一環として城内に反射炉を建設し,ついで溶鉱炉やガラス,陶磁器,農具,地雷,ガス灯などの各種製作所を設け,のちにこの場所は集成館と呼ばれてその規模を拡大し,1日に1200人を超す職工・人足が働いていた。佐賀藩でも幕末には反射炉を設け,さらに造船,鋳砲を目的に藩営工場を建設し,あるいは土佐藩でも開成館事業の一環として各種の藩営工場を計画し,これらは日本における近代工場創出の基盤ともなった。【吉永 昭】。…

【肥前国】より

…竜造寺氏領ではしだいに実権を掌握した鍋島氏が実質的な統轄者になり,1607年には鍋島勝茂に統治権が認められて,名実ともに鍋島体制になった。佐賀藩の表高は35万7000石であった。唐津地域を領した寺沢氏は1601年肥後天草に4万石を加増されて12万石余となったが,37年(寛永14)の島原の乱により天草領が没収された。…

※「佐賀藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android