佐賀(読み)サガ

デジタル大辞泉 「佐賀」の意味・読み・例文・類語

さが【佐賀】

九州地方北西部の県。肥前の東半部にあたる。吉野ヶ里遺跡がある。有田焼伊万里焼の産地。人口85.0万(2010)。
佐賀県東部の市。県庁所在地。もと鍋島氏の城下町。多布施たふせ川が北部山地から市街に流入、多くの水路をつくる。平成17年(2005)に周辺4町村を、平成19年(2007)に3町を編入。人口23.8万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「佐賀」の意味・読み・例文・類語

さが【佐賀】

  1. [ 一 ] 佐賀県東部の地名。佐賀平野の中央部にある。県庁所在地。江戸時代は佐賀鍋島藩三五万七千石の城下町として栄えた。明治七年(一八七四)佐賀の乱により佐賀城や市街地の一部を焼失したが、城下町の面影は残されている。商業都市。明治二二年(一八八九)市制。
  2. [ 二 ] ( 巡行の日本武尊が、この地に樟(くすのき)の茂り栄えるのをみて、「栄(さか)」と名づけたと伝えられる ) 佐賀県東部の郡。背振山地南麓から有明海沿岸を占める。明治二二年(一八八九)郡内中央部に佐賀市が成立。
  3. [ 三 ]さがけん(佐賀県)」の略。

さが【佐賀・嵯峨】

  1. 姓氏の一つ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐賀」の意味・わかりやすい解説

佐賀(県)
さが

九州地方の北西部にある県。北東部と東部は福岡県に、西部は長崎県に接する。北は玄界灘(げんかいなだ)(玄海)、南は有明海(ありあけかい)に面し、この両海域に挟まれた、広義の肥前(ひぜん)半島の付け根の部分にあたる。佐賀県庁の数理位置は北緯33度15分、東経130度18分。「南国土佐(とさ)」の高知県庁の北緯33度33分よりわずかに南にある。このような数理位置より、朝鮮半島や長崎などに近いといった関係位置のほうが、本県域の歴史のうえに重要な意味をもった。県都佐賀市から首都東京までの鉄道距離は約1230キロメートル。それに対し、青木月斗(げっと)の「太閤(たいこう)が睨(にら)みし海の霞哉(かすみかな)」の句碑が立つ名護屋(なごや)城跡から、壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮半島南端のプサン(釜山(ふざん))に至る直線距離はわずかに200キロメートル足らずである。このような対外的近接性は、国内支配中心の畿内(きない)・関東に対する遠隔性とともに、本県域の文化・経済にみる先進性・辺地性の二重構造の形成につながった。本県は2020年(令和2)時点で、面積は2440.69平方キロメートルと全国42位、人口は81万1442人で41位と、福岡・長崎両県に挟まれた文字どおり小県である。県下最大の県都佐賀市にしても人口23万3301(2020)、広域中心都市の福岡市や異国情緒豊かな長崎市の都市規模に比すべくもない。JR特急の始発・終着駅とも県下にはなく、通過地域としての回廊的性格を示してきた。しかし、有田(ありた)の窯芸文化、佐賀藩の洋式工業ほか、外来文化の受容といった面では先進的な役割を果たした。また、唐津(からつ)炭田、米作の「佐賀段階」、有明海のノリ養殖、玄海原子力発電所など、各方面で注目されてきた。人口動態をみると、第1回国勢調査の1920年(大正9)に67万3895、1940年(昭和15)が70万1517、第二次世界大戦後の1947年(昭和22)には海外引揚げや復員などで91万7797に上った。さらに炭鉱開発も進んで1955年には97万3749のピークを示した。1956年以後は相次ぐ炭鉱閉山などで人口減が続き、1970年には83万8442まで減少した。1973年から増加に転じ、地域開発も進んで1985年には88万0018を数えた。1990年(平成2)には87万7851と人口減をみたが、1995年には88万4316と増加を示した。2000年は87万6654、2005年は86万6369、2010年84万9788、2015年83万2832、2020年81万1442で、ふたたび減少した。1995~2000年には県下49市町村のうち、工業・住宅開発などが目だつ県東部市町村を中心に14市町村で人口増をみた。なかでも、福岡県に近い三養基(みやき)郡基山(きやま)町では住宅団地の造成が進み、1990~1995年には実に県下最高の増加率27.6%を示したが、2000~2005年、2005~2010年は若干ながら減少に転じている。1990~1995年の減少率では11.6%の富士町(現、佐賀市富士町地区)および玄海町の9.7%、肥前町(現、唐津市肥前町地区)の8.8%減などが注目をひいた。

 2020年10月時点で、10市6郡10町からなる。

[川崎 茂]

自然

地形

県域は玄界灘斜面と有明海斜面に大きく分けられる。両斜面の分水界は脊振山地西部の福岡県境羽金(はがね)山(900メートル)付近から南下、天山(てんざん)(1046メートル)・八幡(はちまん)岳(764メートル)付近などを経て長崎県境神六(じんろく)山(447メートル)の南東方に至る。県東部は分水界が脊振山地の福岡県境に及び、だいたい筑後川(ちくごがわ)・嘉瀬川(かせがわ)水系など有明海斜面にある。県西部では玉島川(たましまがわ)・松浦川(まつうらがわ)・有田川水系や東松浦半島などの玄界灘斜面と、六角川(ろっかくがわ)・塩田川(しおたがわ)・鹿島(かしま)川水系などの有明海斜面とに分かれる。

 県東部は北の脊振山地と南の佐賀平野に大別される。脊振山地は筑紫(つくし)山地西部の地塊山地で、脊振山(1055メートル)を主峰とする地塁状の主脈が福岡県境を東西に連なる。その南に隆起準平原をなす高原状の丘陵が広がり、南西端で天山、彦岳(ひこだけ)(845メートル)の山系が直接佐賀平野に臨む。脊振山地は県境や南端部で部分的に蛇紋岩や変成岩類をみるが、大部分は花崗(かこう)岩類で、嘉瀬川など諸水系の河谷が樹枝状に発達し、小山間盆地や峡谷を各地に形成する。脊振山地の南には、山麓(さんろく)部の洪積台地を経て、低平な佐賀平野が有明海に向けて広がる。だいたい標高5メートル等高線以北に旧期沖積層(低位段丘礫(れき)層)が分布。それ以南は新期沖積層で、溝渠(こうきょ)(クリーク)網や、佐賀江(さがえ)、八田江(はったえ)、本庄江(ほんじょうえ)など海水逆流の江湖(えご)が平野の景観を特色づける。有明海湾奥部の潮汐(ちょうせき)干満差は日本一で、六角川河口付近で大潮差は約6メートルにも達する。沿岸には広大な干拓地や干潟が広がり、厚い有明粘土層地帯をなす。六角川下流以南は白石平野(しろいしへいや)と称し、俗に佐賀平野と区別する。

 県西部には、松浦杵島(きしま)丘陵地や東松浦溶岩台地、多良(たら)火山地など分布。脊振山地の西には、厳木(きゅうらぎ)川から牛津川(うしづがわ)上流域に及ぶ北西―南東方向の断層を境に、第三紀層を主とした松浦杵島丘陵地が広がる。ほうぼうで玄武岩や安山岩類などが第三紀層を貫き、八幡岳や神六山などの峰を形成。また多久(たく)・武雄(たけお)・嬉野(うれしの)など諸盆地が両斜面各所に分布する。第三紀層域ではかつて唐津炭田など炭鉱開発をみた。唐津湾奥には松浦川下流平野や虹の松原(にじのまつばら)砂丘などが分布、その北西方東松浦半島には、玄武岩類の溶岩台地、俗称上場台地(うわばだいち)が広がる。台地末端はリアス海岸の溺れ谷(おぼれだに)を形成、七ツ釜(ななつがま)など玄武岩の柱状節理の海食崖(かいしょくがい)もみる。玄界灘には、馬渡島(まだらしま)、加唐島(かからじま)、加部島(かべしま)、小川島(おがわしま)、神集島(かしわじま)、大島、高島など玄武岩のかぶさる卓状の島々が浮かぶ。伊万里(いまり)湾から有田川断層谷西方の長崎県境には、国見(くにみ)山(776メートル)、八天(はってん)岳(707メートル)など玄武岩類の西(にし)岳山地が南北に連なる。その北方国見岳(496メートル)北の人形石(にんぎょういし)山(427メートル)付近など第三紀層域には有名な地すべり地帯がある。南部有明海斜面の長崎県境には多良火山地があり、県下最高峰の経ヶ岳(きょうがだけ)(1076メートル)や、多良岳(996メートル)など数峰からなる複雑な火山地形を示し、放射谷の発達をみる。その裾野(すその)は、北から東にかけて有明海岸にまで広がる。この火山地に源を発し、有明海に注ぐ感潮河川の塩田川や鹿島川は水害常襲地の歴史をもつ。蛇行しながら有明海最奥部に流入する六角川は、満潮時、潮汐の影響が河口から20キロメートル以上の武雄盆地東部に及び、かつては塩田川同様に水運と水害の相反する様相を示した。その下流南方、杵島山の東に広がる白石平野は、干害に悩み、深井戸灌漑(かんがい)で地盤沈下をみた。

 県内の自然公園には、変化に富んだ海岸線と奇勝の海食地形(七ツ釜)で知られる玄海国定公園のほか、黒髪山、多良岳、天山、八幡岳、脊振北山(ほくざん)、川上金立(かわかみきんりゅう)の6県立自然公園がある。また、樫原湿原は県の「自然環境保全地域」となっている。

[川崎 茂]

気候

県域の大部は温暖で、各地に県木クスノキの巨木が茂り、吉野ヶ里(よしのがり)町の千石(せんごく)山サザンカと玄界灘側にある唐津市肥前町の高串(たかくし)アコウは、ともに自生北限地帯をなし、国の天然記念物である。玄界灘側は、冬季北西季節風が強いが、積雪も少なく、対馬暖流の影響で比較的温和な海洋性的気候を示す。有明海側は、夏季多雨、冬季寡雨の太平洋型の気候であるが、海陸風の影響もあまりなく内陸性的で、とくに夏は高温でむし暑い米どころの風土をなす。なお、県内の低温地域は脊振山地などで、分水界に近い佐賀市三瀬(みつせ)村地区では1月の最低気温極値が零下10℃を超した年もある。年降水量は山地部で2000ミリメートル以上にも及ぶが、有明海湾奥の六角川河口付近平野部や東松浦半島北部では、1800ミリメートル以下の比較的雨の少ない地域を形成する。白石平野や上場台地は、雨が少なく灌漑水利の条件にも恵まれず、夏には干魃(かんばつ)に悩まされてきた。台風期よりむしろ梅雨期の多雨が目だち、梅雨前線の停滞でしばしば集中豪雨にみまわれる。県西部に地すべり地帯があり、また有明海沿岸では台風の襲来などで高潮災害を経験した。春に大陸黄砂(こうさ)の飛来をみる。

[川崎 茂]

歴史

先史・古代

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の末盧(まつろ)国は今日の唐津地方とされ、神功皇后(じんぐうこうごう)説話、松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説など、玄界灘側と朝鮮・中国大陸との関係位置を物語るものは多い。有明海斜面でも、大宰府(だざいふ)に近い基肄(きい)城や、佐賀市北部の帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)、杵島山西側のおつぼ山神籠石などは外寇(がいこう)防備の朝鮮式山城(やまじろ)とされる。みやき町板部(いたべ)の物部神社(もののべじんじゃ)は、新羅(しらぎ)遠征の将で聖徳太子の弟である来目皇子(くめのみこ)ゆかりの神社という。みやき町綾部(あやべ)も、渡来人が兵器製造したという漢部(あやべ)郷の遺称地とされ、朝鮮方面との関係を伝える。

 旧石器時代の多久(たく)市茶園原(ちゃえんばる)遺跡や、縄文時代貯蔵穴の有田町坂の下(さかのした)遺跡ほか、県内各地に先史遺跡が分布する。唐津市には、大陸の農耕文化受容を知るうえに貴重な菜畑遺跡(なばたけいせき)や宇木汲田(うきくんでん)遺跡、さらに葉山尻支石墓(はやまじりしせきぼ)など、縄文から弥生(やよい)時代にかけての著名な遺跡がある。また末盧国の唐津地方は、唐津市の谷口古墳(たにぐちこふん)、横田下(よこたしも)古墳や、唐津市島田塚などの代表的な古墳をもち、佐賀平野北部山麓一帯とともに二大文化圏を形成していた。佐賀平野北麓には、吉野ヶ里町の三津永田遺跡(みつながたいせき)や二塚山遺跡(ふたつかやまいせき)など弥生時代の有力な集落墓地がみられた。とくに吉野ヶ里遺跡は弥生時代の大規模な環濠集落として全国的に脚光を浴び、1991年(平成3)に国の特別史跡となった。さらに鳥栖(とす)市田代太田(たしろおおた)古墳、神埼(かんざき)市伊勢塚(いせづか)、佐賀市の西隈(にしくま)古墳、銚子塚(ちょうしづか)、船塚(ふなづか)など多くの代表的古墳群が分布する。佐賀市丸山遺跡は縄文~古墳時代の複合遺跡で知られる。なお佐賀平野部に、弥生時代集落跡の小城(おぎ)市土生(はぶ)遺跡や、弥生時代貝塚群の神埼(かんざき)市詫田貝塚(たくたかいづか)などがある。肥前国(ひぜんのくに)の国府は佐賀市大和町(やまとちょう)地区の平坦(へいたん)部に存在したと推定され、条里制遺構もその周辺で広く認められた。

[川崎 茂]

中世・近世

神埼荘(かんざきのしょう)は肥前最大の荘園で、佐賀平野部から脊振山地に及ぶ広大な院御領(いんのごりょう)であった。有明海の臨海部に河副荘(かわそえのしょう)が成立し、13世紀後期には少なくとも干拓による干潟荒野の開発がみられたと思われる。玄界灘側には広大な松浦荘の成立をみたが、東松浦半島沿岸部はまた中世、松浦党諸氏の根拠地であった。松浦党は朝鮮や中国沿海に侵寇(しんこう)した倭寇(わこう)で知られるが、一方元寇での活躍も伝えられている。

 戦国時代には脊振山地山内(さんない)の神代(くましろ)氏などに対し、龍造寺氏(りゅうぞうじうじ)が佐賀平野に台頭し四囲に勢力を張った。のちに龍造寺氏の重臣鍋島氏(なべしまうじ)が継承し、近世佐賀藩の成立をみた。豊臣(とよとみ)秀吉は、朝鮮侵寇への最前線基地として東松浦半島北端に名護屋城(なごやじょう)を築いた。のちに秀吉の側近寺沢広高(てらざわひろたか)が初代唐津藩主となり、1608年(慶長13)松浦川河口の満島(まんとう)山に唐津城を完成。鍋島氏も同年典型的な平城である佐賀城の惣普請(そうふしん)を実施し、城下町の建設にあたった。その後、鍋島氏が明治維新まで連綿と佐賀藩を支配した。約35万7000石の佐賀藩領は、本藩のほかに、小城(おぎ)・蓮池(はすのいけ)・鹿島(かしま)の3支藩や親類、親類同格など多くの自治領を含み、複雑な構造をもった。唐津藩は譜代(ふだい)大名による転封が相次ぎ、江戸後期には名目6万石で、佐賀藩とは異なった様相を示した。なお東部の現鳥栖市・基山(きやま)町域には対馬藩田代(たしろ)領が形成され、また江戸後期には幕領が佐賀・唐津両藩に挟まれた松浦郡域にみられた。ケンペルシーボルトも江戸参府で東上した長崎街道が、南西の嬉野(うれしの)宿から佐賀城下を経て北東の田代宿方面へと抜け、多くの宿駅の発達をみたが、これを軸に各地への往還も通じた。有明海側の感潮河川に臨む牛津、高橋、塩田津などは、長崎街道など主要往還と結ぶ河港としてにぎわった。干拓などの土地開発も進み、佐賀藩では1783年(天明3)設置の六府方(ろっぷがた)のなかに干拓事業担当の搦方(からみかた)を設け、有明海の干拓を推進した。搦とは干潮時に土を寄せ、突き固めて潮止めをする干拓法である。田代領の売薬やハゼの栽培は、唐津藩の捕鯨、採炭、紙漉(かみす)きなどと同様に、藩財政に重要な役割を果たした。

 佐賀藩では皿山(さらやま)代官統轄の有田窯業が注目される。16世紀末の、秀吉による文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役は、日本の窯芸文化のうえに重要な影響を与えた。鍋島直茂(なおしげ)が連れ帰った李参平(りさんぺい)など李朝(りちょう)系陶工たちが、17世紀初期、流紋岩類からなる有田郷の地で、日本で最初に磁器を創成したと伝える。酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)一族が磁胎への赤絵付(あかえつけ)法を完成したのは1640年代とされる。17世紀後半から18世紀にかけて有田皿山の黄金時代が現出され、長崎出島(でじま)を介して、色絵(いろえ)磁器類などの古伊万里(こいまり)が東南アジアやヨーロッパに大量に持ち出された。また伊万里津からは国内各地にも積み出されたため、有田焼は「伊万里焼」の名でよばれるようになった。とくに海外交易によりヨーロッパの窯芸に大きな影響を与えたことは特筆に値する。

[川崎 茂]

近・現代

明治維新には、佐賀藩は「薩長土肥(さっちょうどひ)」の一角を占め、新政府には大木喬任(おおきたかとう)が文部卿(きょう)、江藤新平(えとうしんぺい)が司法卿、副島種臣(そえじまたねおみ)が外務卿の任につき、大隈重信(おおくましげのぶ)も参議として参加した。しかし一方、佐賀では不平士族による反政府運動が醸成され、征韓党が征韓論に破れて野(や)に下った江藤新平を、憂国(ゆうこく)党が島義勇(しまよしたけ)を担ぐに至り、1874年(明治7)2月には、ついに佐賀の乱として爆発した。反政府軍は敗北に帰し、江藤・島らは処刑された。なお、1871年9月には、廃藩置県で誕生した旧佐賀本藩領の佐賀県が、旧対馬藩の厳原(いづはら)県と合併して県庁を伊万里に移し、伊万里県の成立をみた。同年11月には小城・蓮池・鹿島・唐津の諸県も伊万里県に統合されたが、翌年5月には佐賀県と改称し、県庁も伊万里から佐賀に移された。対馬は同年8月長崎県に編入。この佐賀県も、佐賀の乱翌々年の1876年4月には筑後(ちくご)の三潴(みずま)県に合併され、さらに同年8月長崎県の管轄に移された。1883年5月、長崎県から佐賀県が分離独立した。1889年の市制・町村制施行で1市5町130村。1983年(昭和58)5月、佐賀県政100年を迎えた。

 この間、1892年(明治25)の選挙大干渉や、1918年(大正7)の炭鉱争議などでは、軍隊まで出動の激しい騒乱事件を体験した。第二次世界大戦後も、豪雨大災害、町村合併、石川達三の小説『人間の壁』のモデルとなった佐教組事件、杵島炭鉱長期スト、炭鉱閉山、さらに玄海原発問題など激動期が続いた。一方、1935年(昭和10)前後には、米作の「佐賀段階」を実現し、戦後も1965、1966年(昭和40、41)には米作日本一になるなど、新佐賀段階米づくり運動が展開された。有明海のノリ養殖、ミカン栽培も盛んとなった。しかし、炭鉱閉山とともに、米の生産調整などで、県当局は鳥栖・伊万里地区や旧産炭地などの工業開発に積極的に動くに至った。いまや久留米(くるめ)・鳥栖テクノポリス構想ほか、技術立県への道を目ざす。また、「21世紀県民の森」の建設、県立美術館の開館など、各種の県政100年記念事業を進め、文化立県をも高く掲げてきた。県立の九州陶磁文化館・名護屋城博物館などの文化施設も相次いで登場し、また吉野ヶ里遺跡もその保存活用に向け、国営吉野ヶ里歴史公園としての整備が進められている。

[川崎 茂]

産業

幕末・維新期、松浦川筋の唐津炭田は日本最大の産炭地であった。さらに幕末期の佐賀藩は、日本で最初に洋式反射炉の構築に成功するなど、洋式工業導入のうえに先駆的な役割を果たした。しかしこれらも、明治以降の日本工業化の流れに対して、本県の優位性を形成するまでに至らず、明治後の本県はやはり農業県として広く知られてきた。

[川崎 茂]

農林業

県全体では水田が耕地面積の79%を占めるが、とくに佐賀平野部は、水田率が90%以上に及ぶ山のない地域がいくつもあり、典型的な米どころをなす。昭和10年代、経営規模大にして単位面積当りの米収量大という「佐賀段階」を実現し、日本米作農業の発展モデルとして脚光を浴びた。戦後の1965、1966年(昭和40、41)にも連続して単位面積当りの収量日本一を達成し、「新佐賀段階」と注目された。しかし、農業産出額における米のシェアは、1975年の約51%から2003年(平成15)には約32%に低下した。2003年においては、二条オオムギなどの麦類のシェアが約5%であるのに対し、特産のタマネギ、蓮根(れんこん)のほかに、レタス、アスパラガス、イチゴなどの生産が目だつ野菜類は、約24%と米に次ぐ第2位のシェアを示した。本県主要農産物のミカンは、2004年全国で生産量第6位ながら減少傾向を示した。ナシなどの伸びをみたものの、果樹類全体のシェアは、1979年には野菜類に追い越され、米、畜産、野菜類に次いで第4位となった。2003年時点で、米、野菜類に次ぐ畜産は、鶏、肉用牛、豚、乳用牛などで、畜産農家数は減少するも、1戸当りの飼養数は増加している。なお主要な工芸作物に「嬉野茶」や葉タバコ、イグサなどがある。機械化や圃場(ほじょう)整備など農業の近代化が進む。

 2000年における、樹林地面積に対する人工林率72%、民有林森林面積1ヘクタール当りの林道密度12メートルはともに全国のトップレベル。しかし、素材生産量はわずか14万2000立方メートル程度(2005)で漸減傾向を示す。林野面積の70%有余が私有林である。

[川崎 茂]

水産業

1960年代に入り、有明海のノリ養殖が急速に伸びた。1965年ころ以降は、海面養殖が、玄界灘などの漁船漁業にとってかわり、本県水産業の主役となった。2004年総生産額の84%を海面養殖が占めた。海面養殖生産額の90%近くがノリで、ノリ生産額のほとんどを有明海が占めた。2004年のノリ生産量約18億3000万枚、生産額203億8100万円はともに全国第1位。玄界灘では真珠やブリ・タイ類などの養殖をみる。漁船漁業では玄界灘の巻網・揚繰(あぐり)網などによるサバ・アジ・イワシなどの漁獲が目だつ。有明海ではモガイ類やタイラギなどの貝類を産し、竹崎(たけざき)のガザミなども知られる。

[川崎 茂]

鉱工業

明治後期以降、三菱(みつびし)ほかの外来大資本が県内諸炭鉱に進出し、さらに地元資本高取(たかとり)の杵島炭鉱が台頭するなど、石炭産業は米作に次ぐ県下の重要産業となった。1960年には年間306万トン余を産し、47の炭鉱を数えたが、エネルギー革命で1972年にはすべて姿を消した。唐津炭田の石炭利用を目的に1967年操業開始の唐津発電所も重油に切り替えられた。なお1975年には、玄海原子力発電所が玄海町値賀崎(ちかざき)にて九州で最初に運転を開始した。玄海原電は1、2号機に続いて、3号機が1994年3月に運転を開始し、1995年度末には原子力が発生電力量の98%余りを占めるに至ったが、さらに4号機が1997年度に運転開始した。2004年度の県内発生電力量は263億5800万キロワット時で、うち原子力が約99%(1981年度は約73%)を占める。また、約75%を福岡県など県外に送電した。

 1960年代後半以降、米作農業の限界、石炭産業の崩壊を前に、県当局は農工併進を打ち出した。伊万里湾の臨海工業開発、鳥栖など県東部内陸工業地域の開発、さらに産炭地振興などを練り上げ、積極的に工場誘致に乗り出した。県東部では、新宝満(しんほうまん)川からの県東部工業用水道が建設され、鳥栖の轟木(とどろき)工業団地をはじめ、上峰(かみみね)・吉野ヶ里の2町にまたがる佐賀東部中核工業団地などが造成されて企業進出をみた。伊万里湾岸でも、久原(くばら)木工団地や名村(なむら)造船の進出をみた七ツ島工業団地など臨海工業開発が進められた。しかし、1995年の年間製造品出荷額等約1兆5327億円は全国の約0.5%で40位、九州8県中6位と本県の占める地位は低い。2004年の製造品出荷額等は1兆5259億円で、全国の約0.5%(第39位)でほとんど変わらない。2004年の内訳は、食料品18.1%、一般機械12.2%、電気機器11.3%が上位で、窯業・土石も3.5%を占めているのが特徴的である。

 窯業は本県の代表的な伝統工業で、陶磁器は売薬とともに、明治末から大正期を通じ県内工産物中産額で上位を占めていた。有田は日本における白磁器と赤絵の発祥の地とされ、江戸期の焼物は伊万里焼、古伊万里としてその名声を内外に馳(は)せた。明治以後、大量生産などへの対応も不十分で、愛知・岐阜両県に出荷額で大差をつけられ、1994年の県陶磁器出荷額は全国の4.1%にすぎない。2003年では、陶磁器製和飲食器で全国第2位、同洋飲食器で第5位となっている。県内各地の伝統的な窯元などで台所用品や美術工芸品などを産するが、タイルや電気用品の製造から、さらにファインセラミックスにも積極的に取り組んでいる。伊万里に窯業団地、有田に卸売団地などもでき、生産と流通の近代化が進む。県東部旧田代領などの売薬も、大正中期以降延膏薬(のべこうやく)販売などで行商圏を全国的に拡大し、近代化を進めた。今日、久光製薬(ひさみつせいやく)など近代的企業の立地をみる。久留米・鳥栖テクノポリス指定などを頂点に、県当局は技術立県の道を目ざし、諸策を展開中である。

[川崎 茂]

交通

江戸時代には、長崎街道などの街道交通と河川交通によって内陸交通網は形成されていた。明治以後はそれらにかわって鉄道が主役となり、まず九州鉄道の鳥栖―佐賀―武雄―早岐(はいき)コースが1898年(明治31)全線開通した。以来、国鉄(今日のJR)の長崎本線、佐世保線(させぼせん)、唐津線、松浦線、筑肥線(ちくひせん)、佐賀線、甘木(あまぎ)線などからなる県内鉄道網が漸次形成され、交通輸送の主役を演じた。しかし、炭鉱閉山に続いて、モータリゼーションが急速に進み、鉄道輸送の地位は低下した。炭鉱開発で1912年(明治45)に敷設された岸岳(きしだけ)線は1971年(昭和46)廃止に、昇降式鉄橋で筑後川を渡る佐賀線も1982年国鉄の廃止対象路線となり、1987年3月に廃止された。1987年4月からJR九州の発足をみたが、松浦線は1988年4月から松浦鉄道(株)、甘木線は1986年4月から甘木鉄道(株)として第三セクターによる再スタートとなった。一方、長崎本線や筑肥線の電化が進み、佐賀駅や唐津駅は高架駅として一新された。1983年に筑肥線姪浜(めいのはま)―博多(はかた)駅間の福岡市営地下鉄乗り入れも実現した。福岡・長崎両県に挟まれた県内には、特急の始発・終着駅は皆無である。2004年度(平成16、( )内は1995年度)の県内鉄道路線別乗降客数をみると、県都の佐賀駅がある長崎本線が全体の43.4%(41.0)を占め、ついで福岡市通勤圏の鹿児島本線が26.2%(22.4)と続き、ほかは唐津線12.8%(14.0)、佐世保線6.9%(8.0)、松浦鉄道4.9%(6.4)、筑肥線4.7%(5.8)、甘木鉄道1.0%(1.4)である。2011年3月には、九州新幹線鹿児島ルートの全線開通に伴い、新鳥栖駅が開業した。

 モータリゼーションの進展に伴い、県内各所で道路整備やバイパス建設、架橋などが相次いでみられた。県東端には、南北に国道3号と九州縦貫自動車道が通じ、鳥栖から佐賀―武雄―嬉野を経て長崎へと国道34号が東西に県内を横断する。鳥栖インターチェンジで九州縦貫自動車道と交差する九州横断自動車道(長崎自動車道と大分自動車道)の県内部分が1990年(平成2)に完成し、本県も本格的に高速道時代に入った。交通渋滞で悩んだ県都佐賀市街でも南と北にバイパスができた。また筑後川河口の川副(かわそえ)大橋が1983年に完成し、有明海沿岸道路の整備も進む。西九州自動車道も整備が進められている。東松浦半島沿岸の国道204号コースには、名護屋大橋や外津(ほかわづ)橋ができ、さらに対岸の長崎県福島とは福島大橋で結ぶ。西の佐世保市との間に国見トンネルが、北の福岡市と結ぶ国道263号の三瀬峠にも1986年に三瀬トンネルが開通した。同じく福岡市と結ぶ国道385号の東脊振トンネルが2005年に開通している。外航をもつ海港は伊万里港と唐津港だけである。この両港は、かつて六角川河口の住ノ江港(すみのえこう)とともに石炭積出し港としてにぎわったが、今日は工業港など新しい港湾機能を求める。唐津東港と、壱岐の印通寺(いんどうじ)との間にはフェリーボートが通う。なお、九州8県で空港のない唯一の県であったが、有明海沿岸の佐賀市川副町地区南端の干拓地に、念願の佐賀空港が1998年開港した。

[川崎 茂]

社会・文化

教育文化

山本常朝(つねとも)口述、1716年(享保1)成立の武士道書『葉隠(はがくれ)』は、佐賀藩の精神文化の真髄を示すものとされ、明治後も葉隠精神の名のもとにおりおりに脚光を浴びた。『葉隠』登場前の元禄(げんろく)年間(1688~1704)多久邑主(たくゆうしゅ)(領主)の多久茂文(しげふみ)は、朱子学の学校東原庠舎(とうげんしょうしゃ)を創設し、さらに宝永(ほうえい)年間(1704~1711)には、孔子像および四哲の像を祀(まつ)る聖廟(せいびょう)を建てた。多久聖廟の春秋2回の釈菜(せきさい)行事は、江戸時代以来今日まで続く。藩学を代表する佐賀本藩の弘道館(こうどうかん)は、1781年(天明1)から1872年(明治5)ころまで存続し、文武両道にわたって教育の刷新を図った。この弘道館から、大隈重信(おおくましげのぶ)・江藤新平(えとうしんぺい)・副島種臣(そえじまたねおみ)・佐野常民(さのつねたみ)・大木喬任(おおきたかとう)ほか明治維新で活躍した多くの人材を輩出した。長崎防備の任にあった佐賀藩は、幕末期、積極的に西洋諸学を取り入れて蘭学(らんがく)寮、医学寮などを設け、長崎に英語学校致遠館(ちえんかん)を開いた。反射炉・アームストロング砲・蒸気船などの洋式科学技術の導入に佐賀藩は文字どおり先駆的な役割を果たした。また、伊東玄朴(いとうげんぼく)らがシーボルトに師事するなど、蘭方医術の修得に努め、日本で最初に種痘(しゅとう)接種を試みた。医学寮は1858年(安政5)に好生館(こうせいかん)と改称されたが、その名は今日もなお県立病院好生館(現、佐賀県医療センター好生館)として継承されている。

 明治以後、地元実業教育の振興にも目が向けられたが、中央向けの人材の育成という教育意識が根強く存在し、それは旧藩主鍋島(なべしま)家の文教事業にもみられた。県教育費が2万円程度であった1887年(明治20)当時、鍋島家から5000円の教育寄付金が県に提供されていたが、それには当時唯一の県立中学校であった佐賀県尋常中学校に対する大きな期待があった。また、1918年(大正7)には「財団法人佐賀育英会」が、鍋島侯爵を総裁とし、大隈重信らを中心に発足をみた。この育英事業が、昭和にかけて大学・高専・陸海軍諸学校・中学校などの上級学校進学者に果たした役割は大きかった。なお、1920年には、県内唯一の官立学校として佐賀高等学校が設置され、一部の県民子弟にとって帝国大学への道も身近となった。第二次世界大戦後の1949年(昭和24)には国立の佐賀大学が発足、1976年には佐賀医科大学(2003年佐賀大学に統合)が発足した。このほか、私立大学1校、短期大学3校がある(2018)。大正から昭和にかけ、鍋島家による図書館、徴古館(ちょうこかん)の事業は、社会教育などの面で大きな役割を果たしたが、その伝統は今日、佐賀市城内にみる図書館・博物館・美術館などの県立諸施設に継承されている。日本洋画壇の先達、久米桂一郎(くめけいいちろう)や岡田三郎助(さぶろうすけ)らを生んだ佐賀県に、1914年佐賀美術協会が創立されたが、その文化活動は今日も続いている。

[川崎 茂]

生活文化

2003年度(平成15)の県民1人当りの所得を市町村別にみると、原子力発電所のある玄海町や武雄市などを除けば東高西低の傾向を示し、県東部の佐賀・鳥栖両市とその周辺町村で高い。鳥栖方面では、工業・住宅団地や自動車道などの開発が目だち、県外の福岡・久留米(くるめ)両市などとの結び付きも強く、生活の変化が顕著に進んだ。佐賀平野の中心である県都佐賀市でも、都市化が進み、郊外のムラの生活に大きな変化が生じた。周辺のムラの農繁期には佐賀のマチなかが閑散とするほど、本来、マチとムラの生活には深いつながりがあった。また圃場(ほじょう)整備が佐賀平野に特徴的な溝渠(こうきょ)景観を変えた。かつて縦横に走る堀(クリーク)の水は家庭・灌漑(かんがい)用水として生活には欠かせなかった。灌漑用水を足踏み水車で堀から汲(く)み上げる過酷な労働や、堀の泥土(でいど)揚げ作業などは後世の語りぐさとなった。一方、半切桶(はんぎりおけ)による堀のヒシの実とりなどは代表的な風物詩であったし、堀でとれたフナの昆布巻きは秋祭(供日(くんち))に欠かせない御馳走(ごちそう)であった。しかし、電気灌漑や水道・農薬・化学肥料の普及、食生活の変化、さらには圃場整備などで、堀と結び付く生活様相は変わってきた。また、草葺(くさぶ)き寄棟(よせむね)民家が多く、かつては県南部に広く分布したコの字型「くど造」民家や、佐賀市川副(かわそえ)町など県南東部のロの字型「漏斗谷(じょうごだに)」民家が特徴的であった。かかる風土色豊かな民家も、屋根葺き替え問題のほか、都市化や有明海ノリブームなど農村生活の変化で、しだいに画一的な近代住宅に姿を変えてきた。脊振(せふり)山地では、近来のレタス栽培などにみられるように、道路整備とモータリゼーションで、いわゆる「山内(さんない)」の生活が変わってきた。東松浦半島の上場(うわば)地方は、かつて出稼ぎが多く、高校進学率も低かった。しかし、玄海原子力発電所の設置や観光開発などで道路整備や架橋が進められ、また二つの高校も上場地方に新設されて、通勤・通学など暮らしに変化が生じてきた。県内には、米、ノリ、ミカンなどのほか、有田焼、唐津焼の陶磁器をはじめ、田代売薬、神埼そうめん、小城羊かん(おぎようかん)、嬉野(うれしの)茶など各種の名産があり、各地の暮らしを支えてきた。有明海のムツゴロウや竹八漬(たけはちづけ)、玄界灘の松浦漬など珍味も数多い。

 民俗芸能には、国指定の重要無形民俗文化財として武雄の荒踊(あらおどり)、唐津くんちの曳山(ひきやま)行事、竹崎観世音寺(かんぜおんじ)修正会(しゅじょうえ)鬼祭、佐賀市白髭(しらひげ)神社の田楽、見島(みしま)のカセドリがある。見島のカセドリは「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つとして、ユネスコ国連教育科学文化機関)の無形文化遺産としても登録されている。武雄地方に伝承される荒踊は独特の武者踊で、鉦浮立(かねぶりゅう)がはやされ、各種の踊浮立(おどりぶりゅう)を演舞する。「浮立(ふりゅう)」は県下の代表的民俗芸能で、多様な分布を示し、田植から収穫までの農業神事などにしばしば奉納される。なかでも、鬼面(きめん)をかぶって演舞する面浮立(めんぶりゅう)は有明海沿岸の農漁村に広く伝承され、鹿島市音成(おとなし)の面浮立、伊万里市府招(ふまねき)の銭太鼓(ぜにたいこ)浮立は国選択無形民俗文化財で、毎年秋祭に奉納される。佐賀市富士町市川(いちかわ)の天衝舞浮立(てんつくまいふりゅう)など、県指定無形民俗文化財の浮立が各地にみられ、内容も多様である。なお、鳥栖市四阿屋(あずまや)神社の御田舞(おんだまい)は国選択無形民俗文化財で、県指定重要無形民俗文化財の神埼市仁比山(にいやま)神社の御田舞同様、農業神事に伴う芸能である。太良(たら)町の川原(こうばる)狂言は、素朴な浮立狂言を伝承し、神埼市千代田(ちよだ)町高志(たかし)の狂言とともに、国選択無形民俗文化財。県指定重要無形民俗文化財の伊万里市脇野(わきの)の大念仏(だいねんぶつ)も、本来は日照り続きや疫病のおりなどにみられた念仏踊で、念仏行(ぎょう)と鉦(かね)太鼓浮立とを組み合わせた芸能として知られる。有明海側で浮立など奉納される秋祭は、代表的な年中行事である。唐津神社秋祭の唐津くんちは、絢爛(けんらん)豪華な14台の曳山行事や、豪勢なおくんち料理などで、文字どおり唐津地方年中行事のピークをなす。伊万里くんちのトンテントン祭は、勇壮活発な町人の祭りである。唐津市呼子町加部島に鎮座する名社田島神社の夏越(なごし)祭や、朝市(あさいち)で知られる同市呼子の大綱引(おおつなひ)き、同市鎮西(ちんぜい)町名護屋の盆綱練(ね)りや、同市波戸(はど)の海中綱引きなど、玄界灘側の1年は多彩である。有明海側太良(たら)町の竹崎観世音寺に伝わる正月修正会の鬼祭は寒気のなかの裸祭で知られる国の重要無形民俗文化財で、童子舞(どうじまい)を伴う。鹿島市浜の寒ブナ市(いち)、白石町水堂安福寺(みずどうあんぷくじ)の出水法要、みやき町綾部神社風占(かざうら)の旗あげ、みやき町千栗八幡(ちりくはちまん)の粥(かゆ)だめし、沖ノ島詣(まい)りなど、有明海側にも地域に生きる年中行事が多い。なお有田陶器市(とうきいち)は陶都有田最大の年中行事で、鹿島市祐徳稲荷(ゆうとくいなり)の初午(はつうま)やお火焚(ひた)き同様に、遠近の人々でにぎわう。

 県内には、国・県指定の文化財・史跡・名勝・天然記念物などが、2018年(平成30)7月時点で、426を数える。これらは県下の歴史・文化・自然を理解するうえに欠くことのできないもので、各地域をはぐくんできた貴重な遺産である。肥前の窯芸文化を象徴する柿右衛門(かきえもん)(濁手(にごしで))、色鍋島(いろなべしま)は国重要無形文化財であり、武雄市の肥前陶器窯跡や、有田町・嬉野市の肥前磁器窯跡は国史跡である。なお基肄(きい)城(椽城)跡と、名護屋城跡ならびに陣跡は特別史跡で、帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)とおつぼ山神籠石は国史跡。玄界灘側には、唐津市浜玉(はまたま)町の谷口(たにぐち)古墳や横田下古墳(よこたしもこふん)、唐津市葉山尻支石墓(はやまじりしせきぼ)群などの国史跡のほか、唐津市の宇木(うき)・桜馬場(さくらばば)出土品、恵日寺(えにちじ)朝鮮鐘、玄海町東光寺仏像などの国指定重要文化財をみる。有明海側にも、国特別史跡「吉野ヶ里遺跡」のほか、鳥栖市の田代太田(たしろおおた)古墳、佐賀市の西隈古墳(にしくまこふん)や銚子塚(ちょうしづか)、小城市三日月(みかつき)町土生(はぶ)遺跡などの国史跡が分布し、小城市牛津町常福寺、鹿島市蓮厳院(れんごんいん)、吉野ヶ里町東妙寺ほかに国指定重要文化財の仏像がある。多久聖廟(せいびょう)は、佐賀市の大隈重信旧宅同様に国史跡であるが、また佐賀城鯱(しゃち)の門および続櫓(つづきやぐら)、佐賀市与賀神社(よかじんじゃ)の楼門・石鳥居・石橋とともに、国指定重要文化財にも指定されている。なお国指定重要文化財の民家に、「くど造」(棟がかまどの構えのようにコの字になっている)の多久市川打(かわうち)家、「漏斗谷」の佐賀市川副町大詫間(おおだくま)の山口家のほか、佐賀市富士町吉村家、大町(おおまち)町土井家、嬉野市塩田町西岡家がある。また県立博物館の有明海漁労用具は、多久市の肥前佐賀の酒造用具とともに重要有形民俗文化財。国の特別名勝の虹の松原(唐津市)と名勝の九年庵(くねんあん)(旧、伊丹氏別邸)庭園(神埼市)がある。天然記念物は国指定では、玄海国定公園の七ツ釜(ななつがま)のほか、佐賀市富士町下合瀬(しもおうせ)の大カツラ、唐津市鎮西町広沢寺(こうたくじ)のソテツ、有田のイチョウ、武雄市川古(かわご)のクス、嬉野の大チャノキなどが知られる。さらに千石山サザンカ、高串アコウの自生北限地帯のほか、佐賀市久保泉町川久保(かわくぼ)のエヒメアヤメ自生南限地帯、黒髪(くろかみ)山カネコシダ自生地、県下各地のカササギ生息地なども国の天然記念物である。また、重要伝統的建造物群保存地区として、嬉野市塩田町塩田津(しおたちょうしおたつ)、有田町有田内山(ありたまちありたうちやま)、鹿島市浜庄津町浜金屋町(はましょうづまちはまかなやまち)、鹿島市浜中町八本木宿(はまなかまちはちほんぎしゅく)がある。なお、長崎自動車道の建設で他所に移築された佐賀市丸山遺跡などの例にみるように、開発の進展に伴い、文化遺産や自然の保護が急務とされている。

[川崎 茂]

伝説

佐賀県の巨人伝説では、巨人を「みそ五郎どん」とよんでいる。長崎と佐賀の土を掘り起こして天山(てんざん)をつくり、雲仙(うんぜん)岳に腰を掛けて有明海で顔を洗ったと伝えている。唐津市呼子町にある佐用姫(さよひめ)神社は、朝鮮の任那(みまな)に出征した夫との別離を悲しみ、石に化した松浦佐用姫の御形石(おかたいし)を神体とし、それを「望夫石(ぼうふいし)」と名づけている。夫を恋するあまり領巾(ひれ)(肩に掛ける布)を振ったという鏡(かがみ)山は、領巾振(ひれふり)山とよばれている。三韓侵略説話の中心人物、神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説は本県にも多い。ことに神集(かしわ)島の産子(うぶこ)山は、皇后が応神(おうじん)帝を出産した地と信じられているが、記紀編纂(へんさん)のとき、日本を大国として位置づける意図でつくった架空の人物ともいわれている。白石(しろいし)町は和泉式部(いずみしきぶ)の生誕地といい、薬師如来(やくしにょらい)の申し子と伝えているが、一説には鹿(しか)の子として生まれたとある。その証拠には足が二つに割れていてつねに足袋(たび)をはいて、離すことができなかったという不思議な伝承がある。平家謀反の罪で鬼界(きかい)ヶ島へ流罪になった俊寛(しゅんかん)は、島で一生を終えたと『平家物語』にあるが、伝説では藤原成経(なりつね)・平康頼(やすより)赦免のとき、ひそかに同行して肥前に隠棲(いんせい)したという。佐賀市嘉瀬(かせ)町の法勝寺(ほうしょうじ)にその墓が残っている。佐賀化け猫騒動は広く流布したが、これは実録本『佐賀怪猫伝』あたりから影響された説話で、その動機とされた龍造寺高房(りゅうぞうじたかふさ)の自殺は島原での敗戦が原因であった。その後、鍋島直茂(なべしまなおしげ)は肥前を与えられた。禄(ろく)を離れた龍造寺の旧臣が主家再興を策した事件を下敷きにしたものという。古伊万里(こいまり)・柿右衛門(かきえもん)・色鍋島(いろなべしま)などの名品を生み出した有田の窯(かま)は、その昔、隠れ里とされ、秘法を守るために陶工たちを生涯、有田に釘(くぎ)付けにしていたという。「名工勇吉」は藩役人とのいさかいから禁を破って出奔したが、連れ戻されて斬首(ざんしゅ)になった。名陶の裏面には幾多の悲話が隠されていた。嬉野(うれしの)市の不動山はキリシタン禁圧の地として知られている。「子屋敷」「子捨て谷」「太刀(たち)洗い」などは、酸鼻(さんび)を極めた弾圧の跡をうかがうことができる伝説地である。武雄市の潮見川一帯は、県下でも河童(かっぱ)の害の多い所として有名であったが、河童の頭領を捕らえて「石に花が咲くまで害を与えぬ」と誓約させたという。その「誓文石(せいもんせき)」が現存する。

[武田静澄]

『『図説 佐賀県の歴史と文化』(1965・佐賀県文化館)』『佐賀県編・刊『佐賀県の民俗』(1965)』『『佐賀県史』上中下巻(1967~1968・佐賀県史料刊行会)』『城島正祥・杉谷昭著『佐賀県の歴史』(1972・山川出版社)』『市場直次郎著『日本の民俗41 佐賀』(1972・第一法規出版)』『青野寿郎・尾留川正平編『日本地誌20 佐賀県・長崎県・熊本県』(1976・二宮書店)』『山口恵一郎編『日本図誌大系 九州Ⅰ』(1976・朝倉書店)』『佐賀市編・刊『さがの民話』(1976)』『宮地武彦編『佐賀の民話60・71』(1976、1978・未来社)』『辺見じゅん他編『日本の伝説38 佐賀』(1979・角川書店)』『『日本歴史地名大系42 佐賀県の地名』(1980・平凡社)』『『角川日本地名大辞典41 佐賀県』(1982・角川書店)』『『佐賀県大百科事典』(1983・佐賀新聞社)』『佐賀県の歴史散歩編集委員会編『佐賀県の歴史散歩』(1995・山川出版社)』『杉谷昭也著『佐賀県の歴史』(1998・山川出版社)』『藤田勝良著『佐賀県のことば』(2003・明治書院)』



佐賀(市)
さが

佐賀県南東部にある県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。1922年(大正11)神野(こうの)村、1954年(昭和29)西与賀(にしよか)、嘉瀬(かせ)、兵庫(ひょうご)、巨勢(こせ)、高木瀬(たかきせ)、北川副(きたかわそえ)、本庄(ほんじょう)、鍋島(なべしま)、金立(きんりゅう)、久保泉(くぼいずみ)の佐賀郡10か村を、さらに1955年神埼(かんざき)郡蓮池(はすいけ)町の大部分を編入。2005年(平成17)諸富(もろどみ)、大和(やまと)、富士の3町および三瀬村(みつせむら)を合併、市域は北方に大きく広がり、さらに2007年に川副、東与賀、久保田の3町を合併、市域は南にも広がった。この結果、面積は431.84平方キロメートル(境界一部未定)となり、唐津(からつ)市に次いで県内第2位となった。人口は23万3301(2020)。1990~1995年の人口増加率約0.7%であったが、1995~2000年は1.9%、2005~2010年は1.6%、2010~2015年は0.5%、2015~2020年は1.3%の減少。旧市域の人口減に対し、周辺新市域の人口増が目だち、ドーナツ型構造を示す。

[川崎 茂]

自然

佐賀平野の中央部を占め、北端は雷山(らいざん)(955メートル)や井原山(982メートル)などの脊振山地(せふりさんち)、南端は南流する嘉瀬川の河口付近で、有明(ありあけ)海に臨む。標高5メートルの等高線が、市街地北郊国道34号のすこし北を東西に走る。それ以北の旧期沖積層に対し、以南は縦横に走る堀割(ほりわり)(クリーク網)や、感潮水路の江湖(えご)の入り組む低平な新期沖積層で、その上に市街地の発達をみた。嘉瀬川水系の水が多布施(たふせ)川を経て市街地に入る一方、満潮時には本庄江(ほんじょうえ)、八田江(はったえ)、佐賀江などの江湖を海水が逆流する。雨期の市街地浸水に対し、排水ポンプ施設の建設も進んでいる。

[川崎 茂]

交通

JRは長崎本線が通じ、市内にある伊賀屋、佐賀、鍋島、久保田の4駅のうち、中心の佐賀駅は唐津線(からつせん)も発着する。なお佐賀線は1987年(昭和62)バスに転換された。また、市街地を東西に貫通した旧国道34号(現、207号)に対し、北部バイパスが新しく34号に、南部バイパスが208号となり、東西道路交通の円滑化が進む。それに対し、南北交通の整備が、南部にある佐賀空港(1998年開港)との連絡など、今後の課題となっている。脊振山地越えの国道263号、323号が北に通ずる。また、平野部の北縁を長崎自動車道が通り、佐賀大和(やまと)インターチェンジ(1985年供用開始)がある。南部を444号が横断する。

[川崎 茂]

沿革

8世紀『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』の説話によれば、クスノキの繁茂する「栄(さか)の国」の「栄」が佐嘉(佐賀)の地名の由来であるという。中部から北部にかけての山麓(さんろく)方面は埋蔵文化財の包蔵地帯で、国指定史跡の西隈古墳(にしくまこふん)や銚子塚古墳(ちょうしづかこふん)などがある。丸山遺跡は長崎自動車道の建設で金立地区に移された。国指定史跡の帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)もあり、古代の条里制遺構をとどめる。その近くの市内の大和町久池井(くちい)付近は肥前国府跡の推定地である。中世には佐嘉荘(しょう)、蠣久(かきひさ)荘、川副荘、巨勢荘、嘉瀬荘などの荘園が分布。近世は佐賀藩(鍋島潘(なべしまはん))35万7000石の本拠地。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)龍造寺氏(りゅうぞうじうじ)の村中(むらなか)城の地に、鍋島氏によって平城(ひらじろ)の佐賀城惣普請(そうふしん)がなされ、城下の本格的町割も実施された。長崎街道が通じ、ケンペルやシーボルトも城下を通り抜けた。1874年(明治7)の佐賀の乱で佐賀城は焼失したが、国指定重要文化財の鯱(しゃち)の門、続櫓(つづきやぐら)や、石垣、城壕(しろぼり)などの遺構を残している。2004年(平成16)佐賀城を復原した「県立佐賀城本丸歴史館」が開館した。1883年に佐賀県が長崎県より分離独立して以降、城内(じょうない)の県庁などを核に県の中心地となっている。

 幕末の佐賀藩は、日本の洋式工業導入のうえに先駆的な役割を果たし、嘉永(かえい)年間(1848~1854)には佐賀城北西の築地(ついじ)に洋式反射炉を完成させた。この築地の長瀬町界隈(かいわい)は、明治・大正時代には鍛冶(かじ)・鋳造の町で知られた。しかし、こうした工業技術の先進性も、地元資本が弱く、港湾など立地条件にも恵まれないことなどから、工業化の流れに生かしきれず、一県庁都市にとどまってきた。

[川崎 茂]

産業

2020年(令和2)の国勢調査をみると、全就業者数の75.8%が第三次産業に従事している。国立の佐賀大学(2003年佐賀医科大学と統合)があり、県の行政・金融・文化諸機関などが集まっている。製造業の就業者は11.3%程度であるが、食料品のほか電気、一般機械や、繊維、印刷、金属、鉄鋼などの業種がみられる。北郊高木瀬には工場団地も立地。なお、北部などに米作、園芸農業、南にノリ養殖業をみる。

[川崎 茂]

文化

戦災にもあわず、城下町や長崎街道のおもかげをよくとどめ、名所旧跡も多い。「旧古賀銀行」など歴史的建造物5館により構成された「佐賀市歴史民俗館」、国指定史跡の大隈重信(おおくましげのぶ)旧宅のほか、維新期の志士たちや佐賀の乱、藩校弘道館(こうどうかん)などの記念碑が目につく。城壕端同様に、クスノキの大樹が茂る与賀神社(よかじんじゃ)には、国指定重要文化財の楼門(ろうもん)・石橋・肥前鳥居(三の鳥居)がある。市の中心部には、藩祖鍋島直茂(なおしげ)などを祀(まつ)る松原神社が、幕末維新期の名君鍋島直正(なおまさ)・直大(なおひろ)を合祀(ごうし)する佐嘉(さが)神社と並んで鎮座し、春秋の「日峰(にっぽう)さん」の祭りで知られる。直正の別邸「神野(こうの)のお茶屋」は神野公園として市民に開放され、支藩蓮池(はすいけ)館跡の蓮池公園とともにサクラの名所。ウメの名所の高伝寺(こうでんじ)は鍋島家の菩提寺(ぼだいじ)で、墓所には龍造寺・鍋島両家の豪壮な墓石が立ち並ぶ。中部は川上(かわかみ)金立県立自然公園の一部で、川上峡温泉がある。さらに北部には脊振北山、天山の二つの県立自然公園や、古湯温泉(ふるゆおんせん)、熊の川温泉がある。金立には『葉隠(はがくれ)』の口述者山本常朝(つねとも)の垂訓(すいくん)碑や徐福(じょふく)伝説の金立山があり、久保泉には、国の重要無形民俗文化財の田楽(でんがく)を伝承する白鬚神社(しらひげじんじゃ)や、国指定天然記念物のエヒメアヤメ自生南限地帯がある。そのほか市内には、県立博物館・美術館、県総合運動場などの文化施設が多くある。

[川崎 茂]

世界遺産の登録

2015年(平成27)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、三重津(みえつ)海軍所跡が世界遺産の文化遺産に登録された。

[編集部]

『『佐賀市史』上下(復刻・1973・佐賀市)』『『佐賀市史』全5巻(1977~1981・佐賀市)』『福岡博編『佐賀――ふるさとの想い出 写真集』(1979・国書刊行会)』



佐賀
さが

高知県南西部、幡多郡(はたぐん)にあった旧町名(佐賀町(ちょう))。現在は黒潮町の北東部を占める地域。土佐湾に臨む。旧佐賀町は、1940年(昭和15)町制施行。2006年(平成18)大方(おおがた)町と合併して黒潮町となった。地域を伊与木(いよき)川が南流、その河谷低地のほかは山地。中心は伊与木川河口付近の佐賀で、近世、土佐湾捕鯨地の一つ。また、古くからカツオやブリ漁業で知られる。特産品として完全天然塩がある。窪川(くぼかわ)台地から片坂を経て国道56号が、若井ループトンネルを抜けて土佐くろしお鉄道がそれぞれ地内に入り、海岸沿いを通過する。鹿島ヶ浦は土佐西南大規模公園に含まれている。沖合いの鹿島は県の自然環境保全地域に指定され、鹿島神社が鎮座する。

[大脇保彦]


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改訂新版 世界大百科事典 「佐賀」の意味・わかりやすい解説

佐賀[県] (さが)

基本情報
面積=2439.65km2(全国42位) 
人口(2010)=84万9788人(全国42位) 
人口密度(2010)=348.3人/km2(全国16位) 
市町村(2011.10)=10市10町0村 
県庁所在地=佐賀市(人口=23万7506人) 
県花=クスノキ 
県木=クスノキ 
県鳥=カササギ

九州北西部の県。東の福岡県と西の長崎県に挟まれ,北は玄界灘(玄海),南は有明海に臨む。

県域はかつての肥前国の北東部にあたる。江戸末期には佐賀藩とその支藩である小城(おぎ),蓮池,鹿島の3藩,および唐津藩対馬藩(1869年厳原(いづはら)藩と称する)の飛地と天領が置かれていた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い各藩はそれぞれ県となったが,まもなく佐賀県と厳原県が合併して伊万里県が成立,続いて他の4県も併合した。翌年佐賀県と改称。同年対馬,壱岐(いき)が長崎県に移管され,さらに76年佐賀県は三瀦(みづま)県に編入されて,いったん消滅した。現県域はすべて長崎県の管轄下に置かれたが,83年分離して現在の佐賀県が再置された。
肥前国

平沢良(ひらぞうら)遺跡(伊万里市)はナイフ形石器などが出土した先縄文期の遺跡である。戦場ガ谷(せんばがたに)遺跡(神埼郡吉野ヶ里町)はこの地方に数少ない縄文時代(押型文)の遺跡だが,ほとんど消滅してしまった。坂の下遺跡(西松浦郡有田町)は中期末~後期初頭の遺跡で,水田下から土器,石器とともに籠,紐,木器や木の実など植物性器物が出土し,炭素14法による年代で3849±78B.P.という数値が得られている。菜畑(なばたけ)遺跡(唐津市)では近年,晩期後半の層から水稲耕作や機織技術の存在を示す豊富な資料が発見された。白蛇山(はくじややま)岩陰(伊万里市)では,先縄文期の細石器から晩期の夜臼(ゆうす)系土器まで長期にわたる各種の遺物が上下13層にわたって出土している。

 本県が福岡県と並んで弥生文化の遺跡,ことに埋葬遺跡に恵まれていることは地理的位置からもいうまでもない。たとえば大友遺跡(唐津市)はおもに前期の埋葬遺跡で90余体の人骨が発掘され,多数の貝輪などが出土している。宇木汲田(うきくんでん)遺跡(唐津市)も多数の甕棺からなる前期末~中期中ごろの墓地で,銅剣,銅矛,銅戈,多鈕細文鏡,銅釧(どうくしろ),勾玉など豊富な副葬品をもつ。葉山尻(はやまじり)遺跡(唐津市)も前~後期の甕棺と5基の支石墓からなる。三津永田(みつながた)遺跡(神埼郡吉野ヶ里町)も前期末~後期の甕棺墓地であるが,ここでは後期中ごろのものに伴って後漢の鏡や鉄製素環頭大刀,ガラス小玉など各種の遺物が出土した。椛島山(かばしまやま)遺跡(武雄市)は中~後期の埋葬遺跡。甕棺のほか石棺が多く,なかでも墓丘をもつ石棺から漢鏡,素環頭刀子,玉類などが出土して注目される。桜馬場(さくらのばば)遺跡(唐津市)も中~後期の甕棺墓地だが,その中にある後期前半の甕棺に伴って後漢鏡,有鉤(ゆうこう)銅釧,巴形銅器など多量の遺物が出土した。古代末盧(まつら)国の中心地とも考えられている。このほか近年,二塚山(ふたつかやま)遺跡(三養基郡上峰村,神埼郡吉野ヶ里町)も甕棺214をはじめ,土壙,箱式石棺などから鏡,ガラス玉が出土し,また久蘇(くそ)遺跡(小城市)は弥生中期から古墳時代にわたる集落址で,特に洗場(あらいば)とされる遺構から土器類のほか土製品,勾玉,多数の木製品が出土している。その東方500mの土生(はぶ)遺跡(小城市)も中期の農耕集落址で,水田下から住居址と多数の木製品が出土している。安永田(やすながた)遺跡(鳥栖市)からは銅鐸,銅矛の鋳型が出土し,青銅器の工房と推定されている。

 古墳時代では5世紀初頭の谷口古墳(唐津市),杢路寺(もくろじ)古墳(伊万里市),同前半の横田下(よこたしも)古墳(唐津市),それに6世紀後半の装飾古墳,田代太田古墳(鳥栖市)などがある。歴史時代では基肄(きい)城址(三養基郡基山町)や,おつぼ山(武雄市),帯隈山(おぶくまやま)(佐賀市)などの神籠石(こうごいし)と呼ばれる独特の遺構のほか,16~17世紀に中心をおく有田古窯址群がある。
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県都佐賀市から東京までの鉄道距離は約1230kmにも及び,歴史的にも畿内,関東などの国の支配中心からみれば西の辺境に位置した。一方,県内の東松浦半島北端から壱岐,対馬を経て朝鮮半島南端の釜山に至る直線距離は200km程度で,朝鮮半島や中国大陸に近接した位置にあり,また長崎の出島にも近く,古くから外来文化との交渉は活発であり,その受容の面でも先進性を示してきた。たとえば,朝鮮式山城の基肄(きい)城や帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし),おつぼ山神籠石などは,対外的な国土防衛の軍事施設とみられるし,中世の松浦(まつら)党はモンゴル襲来のとき,その防衛にあたっている。さらに豊臣秀吉は,東松浦半島の北端に名護屋(なごや)城などを築き,朝鮮出兵の前線基地とした。また有田焼は,17世紀初め李朝系の帰化陶工たちによって開窯されて以来発展したものである。幕末・維新期,長崎警備にあたっていた佐賀藩が反射炉,大砲,汽船を製造するなど西洋文化の導入にも先進性を見いだすことができる。

佐賀県は米どころといわれ,水田が県面積の約1/5を占める佐賀平野は,有明海湾奥部に広がる筑紫平野西部の肥沃な沖積平野で,県の米作の発展モデル地域として知られてきた。産業別就業人口構成では1975年に26%(うち農林業24%)を占めていた第1次産業が,95年には13%(農林業11%)と半分以下に減少したが,水稲10a当り平年収量では96年現在も全国で6位(518kg)と高い水準を示している。これは昭和初期以来,県がいかにして高い収穫量を上げるかに取り組んできた成果で,1935年前後に電気灌漑などがとり入れられて水稲の生産性が大幅に上がった事象は一般に〈佐賀段階〉と呼ばれて注目された。第2次大戦後は一時停滞したが,北山(ほくざん)ダムの完成(1957)によって佐賀平野の水害と干害が緩和され,60年代には集団栽培が効果を上げて,65年,66年と連続して10a当り米収量日本一を実現し,〈新佐賀段階〉として脚光を浴びた。また1960年ごろから畜産や園芸との複合経営も進み,水田の一部を利用した水田酪農などのほか,佐賀平野北側の脊振(せふり)山地や県南部の多良(たら)岳などの山麓一帯ではミカン栽培が急速に進んだ。95年現在,ミカンは栽培面全国6位,生産量全国5位を占める。1970年の米の生産調整以降,野菜類の伸びが目だったが,平野部のタマネギなどに対し,脊振山地のレタス栽培などは新しい特産地形成として注目された。平地に米作,山麓にミカン栽培,海にノリ養殖,これが1960年代以降の県の第1次産業の傾向である。ノリ養殖は明治時代から玄海側でみられたが,1950年代から県は干潟の広がる有明海でその振興に乗り出した。人工採苗技術の普及などで60年代から有明海のノリ養殖は急速に発展し,95年のノリ生産金額は全国第1位で19%余を占め,県の水産業を代表している。また有明海の干潟でのムツゴロウ漁も有名。

幕末・維新期に日本最大の炭田であった唐津炭田が唐津湾に注ぐ松浦川水系の丘陵地に分布し,有明海に注ぐ六角川水系の丘陵地にも杵島(きしま)炭鉱などの大炭鉱があった。明治以降石炭産業は,農業とともに県産業の基盤をなしてきたが,エネルギー革命などで1972年に石炭産業は完全に崩壊した。幕末・維新期に先進性を示した工業は,石炭産業に重点がおかれたことなどでその後はあまり進展せず,都道府県別製造品出荷額では現在は40位(1995)と低い位置にある。しかし九州では1960年に3.5%と最下位であったシェアが,95年には7.8%と沖縄,宮崎を上回るようになった。これは石炭産業の崩壊や,米の生産調整,ミカンの過剰生産など停滞する県産業の実態を前に,県が農工併進の政策を打ち出し,工業開発の推進などに積極的な姿勢を示してきた現れといえよう。石炭産業の盛んなころは唐津港が積出港となり,1899年唐津線が開通して以来活況を呈したが,斜陽化が進むとともに港もさびれた。1967年産炭地振興のため,唐津港の近くに石炭たき発電所が県内唯一の火力発電所として建設されたが,その後燃料炭の供給ができなくなって重油発電に転換した。この唐津発電所に続いて,75年には玄海町値賀崎(ちかざき)に九州最初の原子力発電所が操業を開始し,この原子力発電所だけで,95年末には県内発生電力量の約98%を占めた。しかも,95年度県内発生電力量の71%有余を県外へ送電しており,県の玄海側は福岡県などへの電力供給基地としての性格を強めている。

 ほかには1970年代以降造船業などを基幹業種とした伊万里湾臨海工業開発や,食品関係ほか道路輸送型業種を主とした県東部内陸工業地域の開発がとくに目だっている。県東部の鳥栖(とす)市は,明治中期以降鹿児島本線と長崎本線の分岐点となり,さらに昭和初めに開通した久大本線の始発駅となるなど鉄道の町として知られ,福岡市とのつながりが強いが,近来は国道3号線と34号線以外に,九州自動車道と長崎・大分の両自動車道が交差する地域として注目されている。鳥栖市の轟木(とどろき)工業団地や鳥栖商工団地などのほか,近くの上峰町,吉野ヶ里町にまたがる佐賀東部中核工業団地などは工業公園を目ざして造成が進められ,企業が進出している。

 江戸時代以来の伝統工業としては,県東部の旧対馬藩田代領(鳥栖,基山(きやま))の売薬業と,県西部の旧佐賀藩有田一帯,旧唐津藩唐津の窯業などがある。ことに有田焼は,伝統的な美術工芸品や台所用品のほかに,碍子(がいし),耐酸磁器,さらに建築用タイルなど各種部門に進出し,ニューセラミックスの開発などにも取り組んできた。しかし,1995年現在,県の窯業・土石関係が全製造品出荷金額に占める比率は6%程度と低下している。

県内は水の流れの方向で玄界灘斜面(玄海側)と有明海斜面(有明側)とに二分されるが,この二つの地域は歴史的背景,人文条件からも対照的である。県内には,1997年現在,佐賀,唐津,伊万里,鳥栖,武雄,鹿島,多久の7市があるが,佐賀と唐津の2市以外は1954年の町村合併時に誕生した市である(2010年現在,嬉野,小城,神埼の3市が加わり10市)。有明側の佐賀市と玄海側の唐津市は,県の二つの顔といえる。唐津は譜代大名の転封が相次いでみられた唐津藩の城下町であったが,佐賀は外様大名鍋島氏が一貫して支配した佐賀藩の城下町であった。佐賀方面から唐津に通ずる国道203号線の笹原(ささばる)峠は,有明側と玄海側の分水界であり,現在は佐賀・唐津両都市圏の境界をもなしている。

(1)玄界灘斜面 県の北西部にあたり,近世の唐津藩領よりやや南西に広い範囲を占める。この地域には唐津・伊万里両市の全域と武雄市の北部および周辺の町が含まれる。伊万里市の中心部や有田町南東部は旧佐賀藩領で,伊万里津は江戸時代には有田焼の積出港で知られた。地形的には東松浦半島を中心に,その東の唐津湾に注ぐ松浦川,玉島川の水系,西の伊万里湾に注ぐ有田川水系などからなり,各河川下流域の小平野以外は大部分が山地,丘陵,台地からなる。壱岐水道に突き出す東松浦半島には,上場(うわば)台地と称する玄武岩類の丘陵性溶岩台地が広がり,溜池と,葉タバコなどの畑作やミカンなどの樹園地,肉用牛飼育が目だつ地域である。上場台地付近は,冬は北西風が卓越するが,対馬暖流の影響で比較的温和で,唐津市の旧肥前町高串(たかぐし)には亜熱帯性のアコウの自生北限地がみられる。台地上は県内でも夏の降水量の少ない地域であるうえに河川の発達も乏しく,水不足に悩んできた。そこで国営,県営の上場土地改良事業が進められ,打上(うちあげ)ダム(1980完成)や後川内(うしろかわち)ダム(1983堰堤完成)などの築造や松浦川からの揚水計画など水資源開発に取り組んできた。上場台地末端の臨海部はリアス海岸をなし,名護屋浦,外津(ほかわづ)浦,仮屋(かりや)湾ほか多くの入江が分布する。半島東岸の唐津市には玄武岩の海食洞で知られる屋形石の七ッ釜(天),虹ノ松原(特名)など景勝地が多い。これらの半島沿岸と沖合の高島,神集(かしわ)島,小川島,加唐(かから)島など付近一帯は玄海国定公園をなす。住吉三神とこの地方の豪族をまつる唐津神社の秋祭〈唐津くんち〉の絢爛(けんらん)豪華な14台の曳山(やま)や,呼子(よぶこ)の大綱引,名護屋の盆綱ねりなど,玄海浦々の年中行事は開放的で多彩である。

(2)有明海斜面 県の東半と南西部に広がり,近世の佐賀藩領よりやや狭い範囲を占める。佐賀,鳥栖,多久,鹿島,神埼,嬉野(うれしの)の6市の全域と,武雄市中・南部および周辺の町からなる。地形的には東から筑後川,嘉瀬川,六角川,塩田川などの有明海に注ぐ諸水系からなり,この地域の約半分の面積を佐賀平野が占める。周辺は脊振山地および多良火山地であるが,武雄,多久,嬉野などの諸盆地もあって全体として低地が広い。玄海側の高燥な上場台地に対し,有明側の佐賀平野はクリーク(堀)網の広がる低平な水田地帯をなし,その臨海部には広大な干拓地とノリひびの立つ干潟が広がる。満潮時には主要河川以外に,本庄江(ほんじようえ),八田江(はつたえ)など江湖(えご)と称する感潮河川をつたって海水が低平な平野内部に逆流する。クリーク網は,灌漑,排水,さらにかつては泥土揚げによる地力の維持など,肥沃な佐賀平野の米作農業を支えてきたが,近年,圃場整備事業でかなり姿を変えた。また,草屋根の棟がくど(かまど)のようにコの字形をしたくど造りの民家は佐賀平野の特色であったが,漸次姿を消していった。夏の高温は水稲の生長を促し,冬の好天は二条大麦などの裏作や温室園芸を広めた。有明海に面する佐賀市の旧川副町では,独特の漏斗谷(じょうごだに)造り民家の山口家住宅(重文)が保存され,また国造搦(こくぞうがらみ)・平和搦の干拓地に1998年佐賀空港が開港した。佐賀藩祖の鍋島直茂をまつる佐賀市の松原神社で春秋に行われる〈日峰(につぽう)さん〉は代表的な祭りとして知られる。
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佐賀[市] (さが)

佐賀県東部にある県庁所在都市。2005年10月旧佐賀市と富士(ふじ),諸富(もろとみ),大和(やまと)の3町と三瀬(みつせ)村が合体,さらに07年10月川副(かわそえ),久保田(くぼた),東与賀(ひがしよか)の3町を編入して成立した。人口23万7506(2010)。

佐賀市南端部の旧町。有明海北岸にある。旧佐賀郡所属。人口1万8250(2005)。筑後川河口にあり,北は旧佐賀市,東は筑後川を隔てて福岡県大川・柳川両市に接する。全域が筑後川三角州の沖積平野で,クリークが発達している。古代~中世は河副荘に属した。古くから干拓が行われ,町の中心犬井道(いぬいどう)付近が戦国時代末期の海岸線で,それ以南は江戸時代以降の干拓地であり,籠状の締切り堤防,搦(からみ)がみられる。基幹産業は農漁業で,近年は米作のほか,ナス,キュウリなどの施設園芸,イグサの栽培などが進められている。特産品として有明ノリがある。〈漏斗谷(じようごだに)〉と呼ばれる独特の屋根をもつ農家建築が多く,大詫間の山口家住宅は重要文化財。海岸にはムツゴロウ,ウミタケなど有明海特有の魚介類が生息する。98年干拓地に佐賀空港が開港。

佐賀市南西端の旧町。旧佐賀郡所属。1967年町制。人口8214(2005)。南部は有明海に臨む。東西を嘉瀬川,福所江川にはさまれ,南北に細長い町域は大部分が沖積低地からなり,筑紫平野を代表する穀倉地帯となっている。町域の約6割は中世以降の干拓地で,久富,三丁井樋の線が戦国時代末期の海岸線と考えられており,その南方は昭和初期に完成した久保田搦(搦は護岸のこと)である。米,麦,野菜の生産を中心とする農業とノリ養殖を主とする漁業が主産業である。香椎神社の四脚門は江戸初期の建築で,県の文化財。北端の久保田駅はJR長崎本線と唐津線の分岐点である。
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佐賀市中部の旧市で,県庁所在地。1889年市制。人口16万7955(2000)。市域は筑紫平野西部の佐賀平野中央部にあり,西端を嘉瀬川が南流し,北端が脊振(せふり)山地にかかり,南端がわずかに有明海に臨む。市街地は,佐賀藩35万7000石の旧城下町で,佐賀平野独特のクリーク(堀)の多い沖積低地に広がり,嘉瀬川水系の水が,多布施(たふせ)川を経て,市街地の掘割や城濠に入り込む。一方,有明海の満潮時には,海水が本庄江(ほんじようえ),八田江(はつたえ),佐賀江などの江湖(えご)(干潟の中の細長い入江)を逆流し,市街地南部に迫る。雨季には市街地がしばしば冠水し,排水対策に追われてきた。近世には長崎路が通じ,ケンペルやシーボルトなども城下を訪れ,幕末・維新期,佐賀藩は積極的に洋式技術の導入に努めた。しかしこのような先進性も,港湾や工業用水に恵まれず,地盤がやわらかいことなどから明治以後にはあまり生かされず,佐賀平野の農村経済に依存する都市にとどまった。

 1995年現在,全就業者の約76%が第3次産業に従事し,県の諸機関が集まり,佐賀大学,佐賀医科大学(2003年佐賀大学と統合され,佐賀大学医学部となる)の2国立大学もある。第2次産業人口は約19%,うち製造業は約9%で,食料品のほかに電気,一般機械,繊維などがあり,市街地北郊の高木瀬には工業団地もあるが,一般的には零細企業が多い。第1次産業人口は約5%であるが,佐賀平野の米作が全国的にみても高い10a当り収量を示すほか,脊振山麓のミカン栽培,有明海のノリ養殖も盛んである。JR長崎本線(1895開通)と佐賀線(1935開通,現在廃止)の分岐点をなし,中心の佐賀駅は1970年代後半に高架駅として一新され,また国道34号線や208号線などが整備されて,周辺の都市化が進んだ。佐賀の乱(1874)で佐賀城は焼失したが,城下町や長崎路のおもかげをよくとどめ,佐賀城の鯱(しやち)の門,続き櫓や,大隈重信旧宅(史)など,名所旧跡が多い。春秋の〈日峰(につぽう)さん〉の祭りで知られる松原神社は,佐賀藩祖鍋島直茂などをまつり,鍋島直正をまつる佐嘉(さが)神社と並んで市街中心部に鎮座する。長崎自動車道が通る脊振山地南麓には,西隈古墳(史),銚子塚古墳(史)などが分布する。この北側は,川上金立(かわかみきんりゆう)県立自然公園の一角で,付近には帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)(史),エヒメアヤメ自生南限地帯(天)などがある。
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肥前国佐嘉(賀)郡の城下町。近世では〈佐嘉〉と書くことが多いが,1870年(明治3)〈佐賀〉に統一した。〈慶長肥前国絵図〉には竜造寺城と蓮池城の2城が描かれているが,これは現在の佐賀城の位置と異なっている。佐賀城の築城はこれ以後のことである。《鍋島勝茂公譜考補》では1602年(慶長7)に佐賀城本丸の建設が始まり,08年には佐賀城の総普請が行われ,家臣屋敷や町方,城周辺の濠がつくられ,11年に総普請が完成したとある。この年には家臣の知行総配分も行われているので,11年は佐賀藩にとって画期をなす年であった。侍屋敷では城内や濠周辺に大身層が居を構えた。1610年と推定される〈慶長御積絵図〉には城の北東部に描かれている南蛮寺が,26年(寛永3)の城下絵図にはみえず,キリスト教の普及と禁止政策の進展がうかがえる。正保年中(1644-48)の城下絵図には唐人町,唐人新町があり,この間に形成されたと推測される。49年(慶安2)の城下絵図には28町,54年(承応3)の絵図では32町が描かれており,元町,勢屯町,伊勢屋本町,点屋町,道祖元町が新町として登場している。材木町が上材木町と下材木町の2町に区別されているように,町の分離によって町数が増加したとみられるが,1740年(元文5)の城下絵図では町数が36町になっている。上芦町,柳町,八百屋町,中島町,夕日町,八戸宿郷方,天祐寺町,本庄向町が新町として登場している。89年(寛政1)の〈巡見録〉には城下町数は33町とある。佐賀城下町の特徴は,侍,手明鑓(てあきやり),中小姓,足軽など武士身分の者が町方に住し,町人と同じ職業に従事していたことで,1847年(弘化4)の〈城下町竈帳〉によれば,2990余のうち,町人とあるのは1293で,他は足軽790余,被官370余など武士身分の者がほとんどであった。5~6竈で一組を構成したが,この組に町人とともに侍,足軽など武士身分の者も編入され,足軽が組頭をつとめるのも珍しくなかった。下級武士と町人が混在する状況は商人気質にも微妙に影響し,城下町居住の家中の妻や娘によって織られる佐賀錦や鍋島緞通が特産品となった。幕末の佐賀藩は1850年(嘉永3)反射炉を北西の築地に設け,砲身穿孔の鑽錐台などによって鋳砲を製造するなど洋式軍事生産の拠点となった。
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佐賀市南西部の旧町。旧佐賀郡所属。1966年町制。人口7930(2005)。旧佐賀市の南に位置し,南は有明海に臨む。肥沃な低地で,住吉・大野両集落を結ぶ線が戦国時代末期の海岸線と考えられ,それ以南は次々と干拓された土地である。大明神搦(からみ),栄徳搦,嘉永搦など江戸期の干拓地や明治以後干拓組合によって造成された授産社搦など,多く〈搦〉の地名を有する。搦は,堤防に柵をつくり,数年間かけて潟泥を付着・堆積させて土寄せをするものである。米作のほか,イチゴの施設園芸,酪農などが行われる。ノリ養殖も盛ん。

佐賀市北西部の旧町。旧佐賀郡所属。北は福岡県に接する。1966年町制。人口5116(2000)。町域は広いが北部は脊振山地,南部と西部は天山(てんざん)山系で,大部分が山間の傾斜地である。谷々の水を集めて中央を嘉瀬川(川上川)が南流する。県の北部山地一帯は山内(さんない)と呼ばれたが,戦国期には神代(くましろ)氏の勢力下にあり,竜造寺氏との抗争が繰り返された。城のあった畑瀬には神代勝利の墓がある。江戸時代には山内の神代氏旧家臣は郷士の処遇をうけ,佐賀藩山内代官の支配下に置かれた。農林業が主体で,米作のほか,高冷地野菜の栽培,畜産などが行われる。山林の大半は第2次大戦後の植林であるが,〈富士杉〉など優良杉の産地として知られる。嘉瀬川上流には北山(ほくざん)ダムがあり,東隣の旧三瀬村にまたがる北山貯水池一帯は県立自然公園。渓谷に古湯温泉,熊ノ川温泉もある。市川の諏訪神社の秋祭には天衝舞浮立(てんつくまいふりゆう)が奉納される。下合瀬(しもおうせ)の大カツラは国の天然記念物。

佐賀市北部の旧村。旧神埼郡所属。〈みつぜ〉とも読む。人口1670(2000)。北部は脊振山地の尾根が連なり,福岡県と接する。周囲を山々に囲まれて盆地状の地形をなし,その中を初瀬川,嘉瀬川,高瀬川の3河川が流れ,南西部,旧富士町にまたがる北山(ほくざん)貯水池に注ぐ。戦国期,肥前北部の山地一帯に勢力を扶植し,竜造寺氏と覇を競った神代氏の居城が宿(しゆく)にあり,城跡には神代勝利をまつった石祠がある。村域北端の三瀬峠(583m)を越える道は肥前と筑後を結ぶ重要なルートで,江戸時代には番所が置かれた。現在は国道263号線が通り,佐賀・福岡両市を結ぶ。米作のほか,養鶏,野菜などの栽培が盛んである。

佐賀市南東部の旧町。旧佐賀郡所属。人口1万2086(2000)。筑後川河口近くの西岸に位置し,北西部は旧佐賀市に,東は筑後川を隔てて福岡県大川市に接する。全域が低平肥沃な三角州の水田地帯をなし,クリークが縦横に走る。町内の諸富津は江戸時代,筑後川舟運の港として栄え,米の積出しでにぎわい,廻船問屋や倉が軒をつらねた。土蔵造の家にそのおもかげが残る。南端の寺井津も港として栄え,多くの魚問屋があったという。隣接の大川市とともに,一大家具産地を形成している。全国でも屈指の水田酪農地帯であり,ほかにイチゴやメロンの栽培も行われる。有明海漁業も盛んで,特産品として有明ノリがある。大堂(おおどう)神社の明神鳥居(寛永17年在銘,鍋島元茂寄進)は県内唯一の鋳銅製鳥居という。三重の新北(にきた)神社の例祭には,獅子舞が奉納される。対岸の大川市とは渡船で結ばれていたが,1935年に架橋されて国鉄佐賀線(現在はバス路線)が開通。現在は国道208号線が大川市とを結ぶ。

佐賀市中部の旧町。旧佐賀郡所属。旧佐賀市の北西に接する。人口2万1956(2000)。町域は南北に長く,北部は脊振山地の南斜面で,中央を川上川(嘉瀬川)が流れて南部に扇状地を形成する。久池井(くちい)付近は古代の肥前国府があった地といわれ,尼寺(にいじ)には国分寺跡,国分尼寺跡があり,国分,惣座(惣社)(そうざ)などの地名も残る。また久留間(くるま)の今山には県下最大の前方後円墳船塚古墳(全長114m)がある。農業を主とし,山間や山麓ではミカンや柿の栽培,酪農が行われる。山麓を長崎自動車道が通り,佐賀大和インターチェンジがある。川上川の渓谷は景勝川上峡として知られ,河畔にある河上神社(淀姫神社)は式内社与止日女(よどひめ)神社に比定され,肥前国一宮として崇敬された。その西にある実相院は,中世には河上神社の社務をつかさどった。久池井にある高城(こうじよう)寺は鎌倉時代の創建で,木造円鑑禅師座像は重要文化財。尼寺の石井樋(いしいび)は近世初期,成富兵庫が川上川支流の多布施川を改修して構築した治水施設で,佐賀城下の用水確保と洪水防止をはかったもの。
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佐賀(高知) (さが)

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日本歴史地名大系 「佐賀」の解説

佐賀
さか

中世、三根みね郡内にみえる地名。佐賀浦は大明神だいみようじん浦ともよばれたので、弘安の役でモンゴル軍が上陸した世界村大明浦は(「高麗史節要」忠烈王七年五月辛酉条)、当地の可能性が高い。康安二年(一三六二)下津しもつ郡八幡宮(現厳原町)の神事料所のうち「正月元さく田一反」が「さか」にあり、年貢を徴収し、懈怠なく神事を勤仕するよう命じられた(同年四月一一日「宗宗香書下写」下津八幡宮文書)。この「さか」は佐賀郡と考えられる。貞治四年(一三六五)「さかのくんし」(佐賀郡司)らが同宮の大床の材木を翌年一月二〇日までに調達するよう命じられたが(同年一一月一九日「某書下写」宗家判物写)、佐賀郡は南北朝期の一時的な郡名で、室町期に対馬八郡が成立するに伴って当地は三根郡のうちとなった。

応永六年(一三九九)「ミねの郡内さかくちきしたか村」の代官職が宗六郎に宛行われた(同年正月一一日「宗貞茂宛行状」三根郷給人等判物写)。同八年宗美濃彦六がみね郡在庁地に属する「さか」など六ヵ所を給分として宛行われた(同年一一月一五日「宗貞茂充行状」仁位郷判物写)。同一一年「三根之郡さか」にある八幡宮(下津八幡宮)の「正月一日御すつりのやく田」二反で違乱を止め、介知けち(現美津島町)の大掾に耕作を命じた(同年一二月一五日「宗正永書下」与良郷宗家判物写)。同年大山宮内入道が「八かいの大もの」(鯨か海豚か)が現れたならば「さかかいふな大いし」において捕獲するよう命じられている(同年一二月二〇日「宗正永書下」同判物写)。永享三年(一四三一)「さか」の居屋敷の領掌が林左衛門大夫に安堵された(同年三月二〇日「宗貞盛書状」馬廻判物帳)。同六年「さかのしやうけん」跡の百姓地の公事が給分として太郎左衛門尉(阿比留氏)に宛行われ、同所は大永六年(一五二六)にも阿比留太郎左衛門尉に宛行われた(永享六年二月一三日「宗貞盛宛行状」・大永六年三月一一日「宗盛長宛行状」三根郷給人等判物写)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐賀」の意味・わかりやすい解説

佐賀
さが

高知県南西部,黒潮町北東部の旧町域。土佐湾に面する。 1940年町制施行。 2006年大方町と合体して黒潮町となる。佐賀港はブリ大敷網漁業や足摺岬沖のカツオの一本釣り漁業の基地。江戸時代は捕鯨で知られた。農業は米作のほか,柑橘類の栽培を行なう。鹿島ヶ浦,佐賀温泉などがある。

佐賀
さか

長崎県,対馬市北部,峰町東部の対馬海峡に面する集落。古くからの集落で,対馬の支配者宗氏は応永 15 (1408) 年から厳原開府の年まで 78年間にわたってここに対馬統治の府を置いた。現在は漁業と商業が行なわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の佐賀の言及

【峰[町]】より

…西部の三根湾に注ぐ三根川や吉田川の流域は対馬でも数少ない田園地帯となっている。東部地区を中心とする漁業はイカ釣りや定置網漁が盛んで,佐賀(さか)港は対馬中央部における中心漁港である。林業ではシイタケ栽培が中心。…

【佐賀[県]】より

…面積=2438.99km2(全国42位)人口(1995)=88万4316人(全国41位)人口密度(1995)=363人/km2(全国16位)市町村(1997.4)=7市37町5村県庁所在地=佐賀市(人口=17万1231人)県花=クスノキの花 県木=クスノキ 県鳥=カササギ九州北西部の県。東の福岡県と西の長崎県に挟まれ,北は玄界灘(玄海),南は有明海に臨む。…

※「佐賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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