佐賀(読み)サガ

デジタル大辞泉 「佐賀」の意味・読み・例文・類語

さが【佐賀】

九州地方北西部の県。肥前の東半部にあたる。吉野ヶ里遺跡がある。有田焼伊万里焼の産地。人口85.0万(2010)。
佐賀県東部の市。県庁所在地。もと鍋島氏の城下町。多布施たふせ川が北部山地から市街に流入、多くの水路をつくる。平成17年(2005)に周辺4町村を、平成19年(2007)に3町を編入。人口23.8万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「佐賀」の意味・読み・例文・類語

さが【佐賀】

  1. [ 一 ] 佐賀県東部の地名。佐賀平野の中央部にある。県庁所在地。江戸時代は佐賀鍋島藩三五万七千石の城下町として栄えた。明治七年(一八七四)佐賀の乱により佐賀城や市街地の一部を焼失したが、城下町の面影は残されている。商業都市。明治二二年(一八八九)市制。
  2. [ 二 ] ( 巡行の日本武尊が、この地に樟(くすのき)の茂り栄えるのをみて、「栄(さか)」と名づけたと伝えられる ) 佐賀県東部の郡。背振山地南麓から有明海沿岸を占める。明治二二年(一八八九)郡内中央部に佐賀市が成立。
  3. [ 三 ]さがけん(佐賀県)」の略。

さが【佐賀・嵯峨】

  1. 姓氏の一つ。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐賀」の意味・わかりやすい解説

佐賀[県] (さが)

基本情報
面積=2439.65km2(全国42位) 
人口(2010)=84万9788人(全国42位) 
人口密度(2010)=348.3人/km2(全国16位) 
市町村(2011.10)=10市10町0村 
県庁所在地=佐賀市(人口=23万7506人) 
県花=クスノキ 
県木=クスノキ 
県鳥=カササギ

九州北西部の県。東の福岡県と西の長崎県に挟まれ,北は玄界灘(玄海),南は有明海に臨む。

県域はかつての肥前国の北東部にあたる。江戸末期には佐賀藩とその支藩である小城(おぎ),蓮池,鹿島の3藩,および唐津藩対馬藩(1869年厳原(いづはら)藩と称する)の飛地と天領が置かれていた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い各藩はそれぞれ県となったが,まもなく佐賀県と厳原県が合併して伊万里県が成立,続いて他の4県も併合した。翌年佐賀県と改称。同年対馬,壱岐(いき)が長崎県に移管され,さらに76年佐賀県は三瀦(みづま)県に編入されて,いったん消滅した。現県域はすべて長崎県の管轄下に置かれたが,83年分離して現在の佐賀県が再置された。
肥前国

平沢良(ひらぞうら)遺跡(伊万里市)はナイフ形石器などが出土した先縄文期の遺跡である。戦場ガ谷(せんばがたに)遺跡(神埼郡吉野ヶ里町)はこの地方に数少ない縄文時代(押型文)の遺跡だが,ほとんど消滅してしまった。坂の下遺跡(西松浦郡有田町)は中期末~後期初頭の遺跡で,水田下から土器,石器とともに籠,紐,木器や木の実など植物性器物が出土し,炭素14法による年代で3849±78B.P.という数値が得られている。菜畑(なばたけ)遺跡(唐津市)では近年,晩期後半の層から水稲耕作や機織技術の存在を示す豊富な資料が発見された。白蛇山(はくじややま)岩陰(伊万里市)では,先縄文期の細石器から晩期の夜臼(ゆうす)系土器まで長期にわたる各種の遺物が上下13層にわたって出土している。

 本県が福岡県と並んで弥生文化の遺跡,ことに埋葬遺跡に恵まれていることは地理的位置からもいうまでもない。たとえば大友遺跡(唐津市)はおもに前期の埋葬遺跡で90余体の人骨が発掘され,多数の貝輪などが出土している。宇木汲田(うきくんでん)遺跡(唐津市)も多数の甕棺からなる前期末~中期中ごろの墓地で,銅剣,銅矛,銅戈,多鈕細文鏡,銅釧(どうくしろ),勾玉など豊富な副葬品をもつ。葉山尻(はやまじり)遺跡(唐津市)も前~後期の甕棺と5基の支石墓からなる。三津永田(みつながた)遺跡(神埼郡吉野ヶ里町)も前期末~後期の甕棺墓地であるが,ここでは後期中ごろのものに伴って後漢の鏡や鉄製素環頭大刀,ガラス小玉など各種の遺物が出土した。椛島山(かばしまやま)遺跡(武雄市)は中~後期の埋葬遺跡。甕棺のほか石棺が多く,なかでも墓丘をもつ石棺から漢鏡,素環頭刀子,玉類などが出土して注目される。桜馬場(さくらのばば)遺跡(唐津市)も中~後期の甕棺墓地だが,その中にある後期前半の甕棺に伴って後漢鏡,有鉤(ゆうこう)銅釧,巴形銅器など多量の遺物が出土した。古代末盧(まつら)国の中心地とも考えられている。このほか近年,二塚山(ふたつかやま)遺跡(三養基郡上峰村,神埼郡吉野ヶ里町)も甕棺214をはじめ,土壙,箱式石棺などから鏡,ガラス玉が出土し,また久蘇(くそ)遺跡(小城市)は弥生中期から古墳時代にわたる集落址で,特に洗場(あらいば)とされる遺構から土器類のほか土製品,勾玉,多数の木製品が出土している。その東方500mの土生(はぶ)遺跡(小城市)も中期の農耕集落址で,水田下から住居址と多数の木製品が出土している。安永田(やすながた)遺跡(鳥栖市)からは銅鐸,銅矛の鋳型が出土し,青銅器の工房と推定されている。

 古墳時代では5世紀初頭の谷口古墳(唐津市),杢路寺(もくろじ)古墳(伊万里市),同前半の横田下(よこたしも)古墳(唐津市),それに6世紀後半の装飾古墳,田代太田古墳(鳥栖市)などがある。歴史時代では基肄(きい)城址(三養基郡基山町)や,おつぼ山(武雄市),帯隈山(おぶくまやま)(佐賀市)などの神籠石(こうごいし)と呼ばれる独特の遺構のほか,16~17世紀に中心をおく有田古窯址群がある。
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県都佐賀市から東京までの鉄道距離は約1230kmにも及び,歴史的にも畿内,関東などの国の支配中心からみれば西の辺境に位置した。一方,県内の東松浦半島北端から壱岐,対馬を経て朝鮮半島南端の釜山に至る直線距離は200km程度で,朝鮮半島や中国大陸に近接した位置にあり,また長崎の出島にも近く,古くから外来文化との交渉は活発であり,その受容の面でも先進性を示してきた。たとえば,朝鮮式山城の基肄(きい)城や帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし),おつぼ山神籠石などは,対外的な国土防衛の軍事施設とみられるし,中世の松浦(まつら)党モンゴル襲来のとき,その防衛にあたっている。さらに豊臣秀吉は,東松浦半島の北端に名護屋(なごや)城などを築き,朝鮮出兵の前線基地とした。また有田焼は,17世紀初め李朝系の帰化陶工たちによって開窯されて以来発展したものである。幕末・維新期,長崎警備にあたっていた佐賀藩が反射炉,大砲,汽船を製造するなど西洋文化の導入にも先進性を見いだすことができる。

佐賀県は米どころといわれ,水田が県面積の約1/5を占める佐賀平野は,有明海湾奥部に広がる筑紫平野西部の肥沃な沖積平野で,県の米作の発展モデル地域として知られてきた。産業別就業人口構成では1975年に26%(うち農林業24%)を占めていた第1次産業が,95年には13%(農林業11%)と半分以下に減少したが,水稲10a当り平年収量では96年現在も全国で6位(518kg)と高い水準を示している。これは昭和初期以来,県がいかにして高い収穫量を上げるかに取り組んできた成果で,1935年前後に電気灌漑などがとり入れられて水稲の生産性が大幅に上がった事象は一般に〈佐賀段階〉と呼ばれて注目された。第2次大戦後は一時停滞したが,北山(ほくざん)ダムの完成(1957)によって佐賀平野の水害と干害が緩和され,60年代には集団栽培が効果を上げて,65年,66年と連続して10a当り米収量日本一を実現し,〈新佐賀段階〉として脚光を浴びた。また1960年ごろから畜産や園芸との複合経営も進み,水田の一部を利用した水田酪農などのほか,佐賀平野北側の脊振(せふり)山地や県南部の多良(たら)岳などの山麓一帯ではミカン栽培が急速に進んだ。95年現在,ミカンは栽培面全国6位,生産量全国5位を占める。1970年の米の生産調整以降,野菜類の伸びが目だったが,平野部のタマネギなどに対し,脊振山地のレタス栽培などは新しい特産地形成として注目された。平地に米作,山麓にミカン栽培,海にノリ養殖,これが1960年代以降の県の第1次産業の傾向である。ノリ養殖は明治時代から玄海側でみられたが,1950年代から県は干潟の広がる有明海でその振興に乗り出した。人工採苗技術の普及などで60年代から有明海のノリ養殖は急速に発展し,95年のノリ生産金額は全国第1位で19%余を占め,県の水産業を代表している。また有明海の干潟でのムツゴロウ漁も有名。

幕末・維新期に日本最大の炭田であった唐津炭田が唐津湾に注ぐ松浦川水系の丘陵地に分布し,有明海に注ぐ六角川水系の丘陵地にも杵島(きしま)炭鉱などの大炭鉱があった。明治以降石炭産業は,農業とともに県産業の基盤をなしてきたが,エネルギー革命などで1972年に石炭産業は完全に崩壊した。幕末・維新期に先進性を示した工業は,石炭産業に重点がおかれたことなどでその後はあまり進展せず,都道府県別製造品出荷額では現在は40位(1995)と低い位置にある。しかし九州では1960年に3.5%と最下位であったシェアが,95年には7.8%と沖縄,宮崎を上回るようになった。これは石炭産業の崩壊や,米の生産調整,ミカンの過剰生産など停滞する県産業の実態を前に,県が農工併進の政策を打ち出し,工業開発の推進などに積極的な姿勢を示してきた現れといえよう。石炭産業の盛んなころは唐津港が積出港となり,1899年唐津線が開通して以来活況を呈したが,斜陽化が進むとともに港もさびれた。1967年産炭地振興のため,唐津港の近くに石炭たき発電所が県内唯一の火力発電所として建設されたが,その後燃料炭の供給ができなくなって重油発電に転換した。この唐津発電所に続いて,75年には玄海町値賀崎(ちかざき)に九州最初の原子力発電所が操業を開始し,この原子力発電所だけで,95年末には県内発生電力量の約98%を占めた。しかも,95年度県内発生電力量の71%有余を県外へ送電しており,県の玄海側は福岡県などへの電力供給基地としての性格を強めている。

 ほかには1970年代以降造船業などを基幹業種とした伊万里湾臨海工業開発や,食品関係ほか道路輸送型業種を主とした県東部内陸工業地域の開発がとくに目だっている。県東部の鳥栖(とす)市は,明治中期以降鹿児島本線と長崎本線の分岐点となり,さらに昭和初めに開通した久大本線の始発駅となるなど鉄道の町として知られ,福岡市とのつながりが強いが,近来は国道3号線と34号線以外に,九州自動車道と長崎・大分の両自動車道が交差する地域として注目されている。鳥栖市の轟木(とどろき)工業団地や鳥栖商工団地などのほか,近くの上峰町,吉野ヶ里町にまたがる佐賀東部中核工業団地などは工業公園を目ざして造成が進められ,企業が進出している。

 江戸時代以来の伝統工業としては,県東部の旧対馬藩田代領(鳥栖,基山(きやま))の売薬業と,県西部の旧佐賀藩有田一帯,旧唐津藩唐津の窯業などがある。ことに有田焼は,伝統的な美術工芸品や台所用品のほかに,碍子(がいし),耐酸磁器,さらに建築用タイルなど各種部門に進出し,ニューセラミックスの開発などにも取り組んできた。しかし,1995年現在,県の窯業・土石関係が全製造品出荷金額に占める比率は6%程度と低下している。

県内は水の流れの方向で玄界灘斜面(玄海側)と有明海斜面(有明側)とに二分されるが,この二つの地域は歴史的背景,人文条件からも対照的である。県内には,1997年現在,佐賀,唐津,伊万里,鳥栖,武雄,鹿島,多久の7市があるが,佐賀と唐津の2市以外は1954年の町村合併時に誕生した市である(2010年現在,嬉野,小城,神埼の3市が加わり10市)。有明側の佐賀市と玄海側の唐津市は,県の二つの顔といえる。唐津は譜代大名の転封が相次いでみられた唐津藩の城下町であったが,佐賀は外様大名鍋島氏が一貫して支配した佐賀藩の城下町であった。佐賀方面から唐津に通ずる国道203号線の笹原(ささばる)峠は,有明側と玄海側の分水界であり,現在は佐賀・唐津両都市圏の境界をもなしている。

(1)玄界灘斜面 県の北西部にあたり,近世の唐津藩領よりやや南西に広い範囲を占める。この地域には唐津・伊万里両市の全域と武雄市の北部および周辺の町が含まれる。伊万里市の中心部や有田町南東部は旧佐賀藩領で,伊万里津は江戸時代には有田焼の積出港で知られた。地形的には東松浦半島を中心に,その東の唐津湾に注ぐ松浦川,玉島川の水系,西の伊万里湾に注ぐ有田川水系などからなり,各河川下流域の小平野以外は大部分が山地,丘陵,台地からなる。壱岐水道に突き出す東松浦半島には,上場(うわば)台地と称する玄武岩類の丘陵性溶岩台地が広がり,溜池と,葉タバコなどの畑作やミカンなどの樹園地,肉用牛飼育が目だつ地域である。上場台地付近は,冬は北西風が卓越するが,対馬暖流の影響で比較的温和で,唐津市の旧肥前町高串(たかぐし)には亜熱帯性のアコウの自生北限地がみられる。台地上は県内でも夏の降水量の少ない地域であるうえに河川の発達も乏しく,水不足に悩んできた。そこで国営,県営の上場土地改良事業が進められ,打上(うちあげ)ダム(1980完成)や後川内(うしろかわち)ダム(1983堰堤完成)などの築造や松浦川からの揚水計画など水資源開発に取り組んできた。上場台地末端の臨海部はリアス海岸をなし,名護屋浦,外津(ほかわづ)浦,仮屋(かりや)湾ほか多くの入江が分布する。半島東岸の唐津市には玄武岩の海食洞で知られる屋形石の七ッ釜(天),虹ノ松原(特名)など景勝地が多い。これらの半島沿岸と沖合の高島,神集(かしわ)島,小川島,加唐(かから)島など付近一帯は玄海国定公園をなす。住吉三神とこの地方の豪族をまつる唐津神社の秋祭〈唐津くんち〉の絢爛(けんらん)豪華な14台の曳山(やま)や,呼子(よぶこ)の大綱引,名護屋の盆綱ねりなど,玄海浦々の年中行事は開放的で多彩である。

(2)有明海斜面 県の東半と南西部に広がり,近世の佐賀藩領よりやや狭い範囲を占める。佐賀,鳥栖,多久,鹿島,神埼,嬉野(うれしの)の6市の全域と,武雄市中・南部および周辺の町からなる。地形的には東から筑後川,嘉瀬川,六角川,塩田川などの有明海に注ぐ諸水系からなり,この地域の約半分の面積を佐賀平野が占める。周辺は脊振山地および多良火山地であるが,武雄,多久,嬉野などの諸盆地もあって全体として低地が広い。玄海側の高燥な上場台地に対し,有明側の佐賀平野はクリーク(堀)網の広がる低平な水田地帯をなし,その臨海部には広大な干拓地とノリひびの立つ干潟が広がる。満潮時には主要河川以外に,本庄江(ほんじようえ),八田江(はつたえ)など江湖(えご)と称する感潮河川をつたって海水が低平な平野内部に逆流する。クリーク網は,灌漑,排水,さらにかつては泥土揚げによる地力の維持など,肥沃な佐賀平野の米作農業を支えてきたが,近年,圃場整備事業でかなり姿を変えた。また,草屋根の棟がくど(かまど)のようにコの字形をしたくど造りの民家は佐賀平野の特色であったが,漸次姿を消していった。夏の高温は水稲の生長を促し,冬の好天は二条大麦などの裏作や温室園芸を広めた。有明海に面する佐賀市の旧川副町では,独特の漏斗谷(じょうごだに)造り民家の山口家住宅(重文)が保存され,また国造搦(こくぞうがらみ)・平和搦の干拓地に1998年佐賀空港が開港した。佐賀藩祖の鍋島直茂をまつる佐賀市の松原神社で春秋に行われる〈日峰(につぽう)さん〉は代表的な祭りとして知られる。
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佐賀[市] (さが)

佐賀県東部にある県庁所在都市。2005年10月旧佐賀市と富士(ふじ),諸富(もろとみ),大和(やまと)の3町と三瀬(みつせ)村が合体,さらに07年10月川副(かわそえ),久保田(くぼた),東与賀(ひがしよか)の3町を編入して成立した。人口23万7506(2010)。

佐賀市南端部の旧町。有明海北岸にある。旧佐賀郡所属。人口1万8250(2005)。筑後川河口にあり,北は旧佐賀市,東は筑後川を隔てて福岡県大川・柳川両市に接する。全域が筑後川三角州の沖積平野で,クリークが発達している。古代~中世は河副荘に属した。古くから干拓が行われ,町の中心犬井道(いぬいどう)付近が戦国時代末期の海岸線で,それ以南は江戸時代以降の干拓地であり,籠状の締切り堤防,搦(からみ)がみられる。基幹産業は農漁業で,近年は米作のほか,ナス,キュウリなどの施設園芸,イグサの栽培などが進められている。特産品として有明ノリがある。〈漏斗谷(じようごだに)〉と呼ばれる独特の屋根をもつ農家建築が多く,大詫間の山口家住宅は重要文化財。海岸にはムツゴロウ,ウミタケなど有明海特有の魚介類が生息する。98年干拓地に佐賀空港が開港。

佐賀市南西端の旧町。旧佐賀郡所属。1967年町制。人口8214(2005)。南部は有明海に臨む。東西を嘉瀬川,福所江川にはさまれ,南北に細長い町域は大部分が沖積低地からなり,筑紫平野を代表する穀倉地帯となっている。町域の約6割は中世以降の干拓地で,久富,三丁井樋の線が戦国時代末期の海岸線と考えられており,その南方は昭和初期に完成した久保田搦(搦は護岸のこと)である。米,麦,野菜の生産を中心とする農業とノリ養殖を主とする漁業が主産業である。香椎神社の四脚門は江戸初期の建築で,県の文化財。北端の久保田駅はJR長崎本線と唐津線の分岐点である。
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佐賀市中部の旧市で,県庁所在地。1889年市制。人口16万7955(2000)。市域は筑紫平野西部の佐賀平野中央部にあり,西端を嘉瀬川が南流し,北端が脊振(せふり)山地にかかり,南端がわずかに有明海に臨む。市街地は,佐賀藩35万7000石の旧城下町で,佐賀平野独特のクリーク(堀)の多い沖積低地に広がり,嘉瀬川水系の水が,多布施(たふせ)川を経て,市街地の掘割や城濠に入り込む。一方,有明海の満潮時には,海水が本庄江(ほんじようえ),八田江(はつたえ),佐賀江などの江湖(えご)(干潟の中の細長い入江)を逆流し,市街地南部に迫る。雨季には市街地がしばしば冠水し,排水対策に追われてきた。近世には長崎路が通じ,ケンペルやシーボルトなども城下を訪れ,幕末・維新期,佐賀藩は積極的に洋式技術の導入に努めた。しかしこのような先進性も,港湾や工業用水に恵まれず,地盤がやわらかいことなどから明治以後にはあまり生かされず,佐賀平野の農村経済に依存する都市にとどまった。

 1995年現在,全就業者の約76%が第3次産業に従事し,県の諸機関が集まり,佐賀大学,佐賀医科大学(2003年佐賀大学と統合され,佐賀大学医学部となる)の2国立大学もある。第2次産業人口は約19%,うち製造業は約9%で,食料品のほかに電気,一般機械,繊維などがあり,市街地北郊の高木瀬には工業団地もあるが,一般的には零細企業が多い。第1次産業人口は約5%であるが,佐賀平野の米作が全国的にみても高い10a当り収量を示すほか,脊振山麓のミカン栽培,有明海のノリ養殖も盛んである。JR長崎本線(1895開通)と佐賀線(1935開通,現在廃止)の分岐点をなし,中心の佐賀駅は1970年代後半に高架駅として一新され,また国道34号線や208号線などが整備されて,周辺の都市化が進んだ。佐賀の乱(1874)で佐賀城は焼失したが,城下町や長崎路のおもかげをよくとどめ,佐賀城の鯱(しやち)の門,続き櫓や,大隈重信旧宅(史)など,名所旧跡が多い。春秋の〈日峰(につぽう)さん〉の祭りで知られる松原神社は,佐賀藩祖鍋島直茂などをまつり,鍋島直正をまつる佐嘉(さが)神社と並んで市街中心部に鎮座する。長崎自動車道が通る脊振山地南麓には,西隈古墳(史),銚子塚古墳(史)などが分布する。この北側は,川上金立(かわかみきんりゆう)県立自然公園の一角で,付近には帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)(史),エヒメアヤメ自生南限地帯(天)などがある。
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肥前国佐嘉(賀)郡の城下町。近世では〈佐嘉〉と書くことが多いが,1870年(明治3)〈佐賀〉に統一した。〈慶長肥前国絵図〉には竜造寺城と蓮池城の2城が描かれているが,これは現在の佐賀城の位置と異なっている。佐賀城の築城はこれ以後のことである。《鍋島勝茂公譜考補》では1602年(慶長7)に佐賀城本丸の建設が始まり,08年には佐賀城の総普請が行われ,家臣屋敷や町方,城周辺の濠がつくられ,11年に総普請が完成したとある。この年には家臣の知行総配分も行われているので,11年は佐賀藩にとって画期をなす年であった。侍屋敷では城内や濠周辺に大身層が居を構えた。1610年と推定される〈慶長御積絵図〉には城の北東部に描かれている南蛮寺が,26年(寛永3)の城下絵図にはみえず,キリスト教の普及と禁止政策の進展がうかがえる。正保年中(1644-48)の城下絵図には唐人町,唐人新町があり,この間に形成されたと推測される。49年(慶安2)の城下絵図には28町,54年(承応3)の絵図では32町が描かれており,元町,勢屯町,伊勢屋本町,点屋町,道祖元町が新町として登場している。材木町が上材木町と下材木町の2町に区別されているように,町の分離によって町数が増加したとみられるが,1740年(元文5)の城下絵図では町数が36町になっている。上芦町,柳町,八百屋町,中島町,夕日町,八戸宿郷方,天祐寺町,本庄向町が新町として登場している。89年(寛政1)の〈巡見録〉には城下町数は33町とある。佐賀城下町の特徴は,侍,手明鑓(てあきやり),中小姓,足軽など武士身分の者が町方に住し,町人と同じ職業に従事していたことで,1847年(弘化4)の〈城下町竈帳〉によれば,2990余のうち,町人とあるのは1293で,他は足軽790余,被官370余など武士身分の者がほとんどであった。5~6竈で一組を構成したが,この組に町人とともに侍,足軽など武士身分の者も編入され,足軽が組頭をつとめるのも珍しくなかった。下級武士と町人が混在する状況は商人気質にも微妙に影響し,城下町居住の家中の妻や娘によって織られる佐賀錦や鍋島緞通が特産品となった。幕末の佐賀藩は1850年(嘉永3)反射炉を北西の築地に設け,砲身穿孔の鑽錐台などによって鋳砲を製造するなど洋式軍事生産の拠点となった。
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佐賀市南西部の旧町。旧佐賀郡所属。1966年町制。人口7930(2005)。旧佐賀市の南に位置し,南は有明海に臨む。肥沃な低地で,住吉・大野両集落を結ぶ線が戦国時代末期の海岸線と考えられ,それ以南は次々と干拓された土地である。大明神搦(からみ),栄徳搦,嘉永搦など江戸期の干拓地や明治以後干拓組合によって造成された授産社搦など,多く〈搦〉の地名を有する。搦は,堤防に柵をつくり,数年間かけて潟泥を付着・堆積させて土寄せをするものである。米作のほか,イチゴの施設園芸,酪農などが行われる。ノリ養殖も盛ん。

佐賀市北西部の旧町。旧佐賀郡所属。北は福岡県に接する。1966年町制。人口5116(2000)。町域は広いが北部は脊振山地,南部と西部は天山(てんざん)山系で,大部分が山間の傾斜地である。谷々の水を集めて中央を嘉瀬川(川上川)が南流する。県の北部山地一帯は山内(さんない)と呼ばれたが,戦国期には神代(くましろ)氏の勢力下にあり,竜造寺氏との抗争が繰り返された。城のあった畑瀬には神代勝利の墓がある。江戸時代には山内の神代氏旧家臣は郷士の処遇をうけ,佐賀藩山内代官の支配下に置かれた。農林業が主体で,米作のほか,高冷地野菜の栽培,畜産などが行われる。山林の大半は第2次大戦後の植林であるが,〈富士杉〉など優良杉の産地として知られる。嘉瀬川上流には北山(ほくざん)ダムがあり,東隣の旧三瀬村にまたがる北山貯水池一帯は県立自然公園。渓谷に古湯温泉,熊ノ川温泉もある。市川の諏訪神社の秋祭には天衝舞浮立(てんつくまいふりゆう)が奉納される。下合瀬(しもおうせ)の大カツラは国の天然記念物。

佐賀市北部の旧村。旧神埼郡所属。〈みつぜ〉とも読む。人口1670(2000)。北部は脊振山地の尾根が連なり,福岡県と接する。周囲を山々に囲まれて盆地状の地形をなし,その中を初瀬川,嘉瀬川,高瀬川の3河川が流れ,南西部,旧富士町にまたがる北山(ほくざん)貯水池に注ぐ。戦国期,肥前北部の山地一帯に勢力を扶植し,竜造寺氏と覇を競った神代氏の居城が宿(しゆく)にあり,城跡には神代勝利をまつった石祠がある。村域北端の三瀬峠(583m)を越える道は肥前と筑後を結ぶ重要なルートで,江戸時代には番所が置かれた。現在は国道263号線が通り,佐賀・福岡両市を結ぶ。米作のほか,養鶏,野菜などの栽培が盛んである。

佐賀市南東部の旧町。旧佐賀郡所属。人口1万2086(2000)。筑後川河口近くの西岸に位置し,北西部は旧佐賀市に,東は筑後川を隔てて福岡県大川市に接する。全域が低平肥沃な三角州の水田地帯をなし,クリークが縦横に走る。町内の諸富津は江戸時代,筑後川舟運の港として栄え,米の積出しでにぎわい,廻船問屋や倉が軒をつらねた。土蔵造の家にそのおもかげが残る。南端の寺井津も港として栄え,多くの魚問屋があったという。隣接の大川市とともに,一大家具産地を形成している。全国でも屈指の水田酪農地帯であり,ほかにイチゴやメロンの栽培も行われる。有明海漁業も盛んで,特産品として有明ノリがある。大堂(おおどう)神社の明神鳥居(寛永17年在銘,鍋島元茂寄進)は県内唯一の鋳銅製鳥居という。三重の新北(にきた)神社の例祭には,獅子舞が奉納される。対岸の大川市とは渡船で結ばれていたが,1935年に架橋されて国鉄佐賀線(現在はバス路線)が開通。現在は国道208号線が大川市とを結ぶ。

佐賀市中部の旧町。旧佐賀郡所属。旧佐賀市の北西に接する。人口2万1956(2000)。町域は南北に長く,北部は脊振山地の南斜面で,中央を川上川(嘉瀬川)が流れて南部に扇状地を形成する。久池井(くちい)付近は古代の肥前国府があった地といわれ,尼寺(にいじ)には国分寺跡,国分尼寺跡があり,国分,惣座(惣社)(そうざ)などの地名も残る。また久留間(くるま)の今山には県下最大の前方後円墳船塚古墳(全長114m)がある。農業を主とし,山間や山麓ではミカンや柿の栽培,酪農が行われる。山麓を長崎自動車道が通り,佐賀大和インターチェンジがある。川上川の渓谷は景勝川上峡として知られ,河畔にある河上神社(淀姫神社)は式内社与止日女(よどひめ)神社に比定され,肥前国一宮として崇敬された。その西にある実相院は,中世には河上神社の社務をつかさどった。久池井にある高城(こうじよう)寺は鎌倉時代の創建で,木造円鑑禅師座像は重要文化財。尼寺の石井樋(いしいび)は近世初期,成富兵庫が川上川支流の多布施川を改修して構築した治水施設で,佐賀城下の用水確保と洪水防止をはかったもの。
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佐賀(高知) (さが)

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日本歴史地名大系 「佐賀」の解説

佐賀
さか

中世、三根みね郡内にみえる地名。佐賀浦は大明神だいみようじん浦ともよばれたので、弘安の役でモンゴル軍が上陸した世界村大明浦は(「高麗史節要」忠烈王七年五月辛酉条)、当地の可能性が高い。康安二年(一三六二)下津しもつ郡八幡宮(現厳原町)の神事料所のうち「正月元さく田一反」が「さか」にあり、年貢を徴収し、懈怠なく神事を勤仕するよう命じられた(同年四月一一日「宗宗香書下写」下津八幡宮文書)。この「さか」は佐賀郡と考えられる。貞治四年(一三六五)「さかのくんし」(佐賀郡司)らが同宮の大床の材木を翌年一月二〇日までに調達するよう命じられたが(同年一一月一九日「某書下写」宗家判物写)、佐賀郡は南北朝期の一時的な郡名で、室町期に対馬八郡が成立するに伴って当地は三根郡のうちとなった。

応永六年(一三九九)「ミねの郡内さかくちきしたか村」の代官職が宗六郎に宛行われた(同年正月一一日「宗貞茂宛行状」三根郷給人等判物写)。同八年宗美濃彦六がみね郡在庁地に属する「さか」など六ヵ所を給分として宛行われた(同年一一月一五日「宗貞茂充行状」仁位郷判物写)。同一一年「三根之郡さか」にある八幡宮(下津八幡宮)の「正月一日御すつりのやく田」二反で違乱を止め、介知けち(現美津島町)の大掾に耕作を命じた(同年一二月一五日「宗正永書下」与良郷宗家判物写)。同年大山宮内入道が「八かいの大もの」(鯨か海豚か)が現れたならば「さかかいふな大いし」において捕獲するよう命じられている(同年一二月二〇日「宗正永書下」同判物写)。永享三年(一四三一)「さか」の居屋敷の領掌が林左衛門大夫に安堵された(同年三月二〇日「宗貞盛書状」馬廻判物帳)。同六年「さかのしやうけん」跡の百姓地の公事が給分として太郎左衛門尉(阿比留氏)に宛行われ、同所は大永六年(一五二六)にも阿比留太郎左衛門尉に宛行われた(永享六年二月一三日「宗貞盛宛行状」・大永六年三月一一日「宗盛長宛行状」三根郷給人等判物写)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐賀」の意味・わかりやすい解説

佐賀
さが

高知県南西部、幡多郡(はたぐん)にあった旧町名(佐賀町(ちょう))。現在は黒潮町の北東部を占める地域。土佐湾に臨む。旧佐賀町は、1940年(昭和15)町制施行。2006年(平成18)大方(おおがた)町と合併して黒潮町となった。地域を伊与木(いよき)川が南流、その河谷低地のほかは山地。中心は伊与木川河口付近の佐賀で、近世、土佐湾捕鯨地の一つ。また、古くからカツオやブリ漁業で知られる。特産品として完全天然塩がある。窪川(くぼかわ)台地から片坂を経て国道56号が、若井ループトンネルを抜けて土佐くろしお鉄道がそれぞれ地内に入り、海岸沿いを通過する。鹿島ヶ浦は土佐西南大規模公園に含まれている。沖合いの鹿島は県の自然環境保全地域に指定され、鹿島神社が鎮座する。

[大脇保彦]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐賀」の意味・わかりやすい解説

佐賀
さが

高知県南西部,黒潮町北東部の旧町域。土佐湾に面する。 1940年町制施行。 2006年大方町と合体して黒潮町となる。佐賀港はブリ大敷網漁業や足摺岬沖のカツオの一本釣り漁業の基地。江戸時代は捕鯨で知られた。農業は米作のほか,柑橘類の栽培を行なう。鹿島ヶ浦,佐賀温泉などがある。

佐賀
さか

長崎県,対馬市北部,峰町東部の対馬海峡に面する集落。古くからの集落で,対馬の支配者宗氏は応永 15 (1408) 年から厳原開府の年まで 78年間にわたってここに対馬統治の府を置いた。現在は漁業と商業が行なわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の佐賀の言及

【峰[町]】より

…西部の三根湾に注ぐ三根川や吉田川の流域は対馬でも数少ない田園地帯となっている。東部地区を中心とする漁業はイカ釣りや定置網漁が盛んで,佐賀(さか)港は対馬中央部における中心漁港である。林業ではシイタケ栽培が中心。…

【佐賀[県]】より

…面積=2438.99km2(全国42位)人口(1995)=88万4316人(全国41位)人口密度(1995)=363人/km2(全国16位)市町村(1997.4)=7市37町5村県庁所在地=佐賀市(人口=17万1231人)県花=クスノキの花 県木=クスノキ 県鳥=カササギ九州北西部の県。東の福岡県と西の長崎県に挟まれ,北は玄界灘(玄海),南は有明海に臨む。…

※「佐賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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