興山寺跡(読み)こうざんじあと

日本歴史地名大系 「興山寺跡」の解説

興山寺跡
こうざんじあと

[現在地名]高野町高野山

小田原おだわら谷の西端、本中院ほんちゆういん谷との境付近の北側、現金剛峯こんごうぶ寺境内の西半分の敷地にあったが、現存しない。行人方役寺で、文殊もんじゆ院とも号した。本尊阿弥陀如来。木食応其豊臣秀吉帰依を受けて天正一八年(一五九〇)開基。応其は秀吉の紀州攻めに際し同一三年秀吉の陣中に参じてよりあつい庇護を得るようになった。応其は客僧であったが、当寺二代となった文殊院勢誉は行人方で、青巌せいがん寺が学侶方の中心寺院となったことと相まって行人方の中心寺院となり、官寺ともよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報