和歌山県伊都郡高野町高野山にある。816年(弘仁7)空海が修善の地として嵯峨天皇の勅許を得て開創した。金剛峯寺の名は《金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経》による。金剛峯寺とは壇上伽藍を中心とする一山の総称で,塔頭(たつちゆう)子院はすべて金剛峯寺に属した。
金剛峯寺は空海によって開かれたが,その経営は代々紀伊国司が俗別当としてこれにあたった。889年(寛平1)伽藍がほぼ完成した時期に,空海の弟子真然は弟子の寿長を初代座主に補任し,以後真然直系で高野山に常住する僧をこれにあてることにした。空海の入唐中のノートである《三十帖策子》の帰属をめぐる紛争ののち,東寺長者観賢(かんげん)はみずから金剛峯寺の座主を兼務して,真然と共通の弟子峰禅を金剛峯寺正別当に任じ,以後東寺長者による金剛峯寺の支配体制を確立した。第5代座主済高(せいこう)のとき高野山に執行職(しぎようしき)をおき,第4代執行雅真のときから検校(けんぎよう)とも称するようになった。12世紀初頭には,従来の三綱(さんごう)に代わって年預職がおかれ,預,行事とともに〈三沙汰人〉と称され,教団の自治機関が整った。ついで覚鑁(かくばん)が出て,真然のときに創設された大伝法会を中興して大伝法院を建立し,春秋2季のおのおの50日間の伝法大会を行った。覚鑁は1134年(長承3)東寺長者の金剛峯寺兼務を排して,みずから本寺(金剛峯寺),末院(大伝法院)の座主に就任し,金剛峯寺検校良禅を追放し,弟の信恵を補任したため,東寺と金剛峯寺衆徒の反感をかい,40年(保延6)根来(ねごろ)寺に移った。75年(安元1)に建立された蓮花乗院が77年(治承1)壇上に移され,伝法大会が継続されることになった。
教団は,学侶(がくりよ),行人(ぎようにん),聖(ひじり)によって構成されていた。中世には学侶が一山の主導権をにぎり,大集会(しゆうえ),小集会の職業的な衆議機関によって教団が運営された。学侶は検校を筆頭に左右両学頭,二読書(とくしよ)(領解衆(りようげしゆう)),十聴衆,会衆(えしゆう),新会衆,学道衆などがその中核を構成して,それぞれに集会,評議組織をもったが,蓮花乗院の伝法大会の構成員である会衆集会が学侶側の代表的な機関として活躍した。伝法大会は中世の教育機関として,大学の機能をも果たした。行人の勢力も中世にはとみに台頭し,行人集会を開くまでに組織化された。聖(高野聖)は室町時代には時宗化した。1207年(承元1)検校勝成の時代から代々検校は法橋(ほつきよう)上人位,84年(弘安7)祐信のときから律師,91年(正応4)寛範のとき権少僧都,1314年(正和3)定範のとき法印大和尚位の永宣旨をそれぞれたまわった。1585年(天正13)豊臣秀吉の高野攻めから金剛峯寺を救った木食応其(もくじきおうご)は中世以来の自治的な集会制度を改め,秀吉の菩提寺青巌寺と興山寺を建立し,興山寺は行人一派の中心寺院となった。1610年(慶長15)幕府から寺中法度が出され,学侶寺院は上(かみ),中(なか),下(しも)の3通りに分け,集議衆十ヶ寺十八人を定め,横目(よこめ),謂口(いいくち)役などを設けて衆徒を統制した。91年(元禄4)には幕府は学侶と行人の紛争を裁断して,行人寺902軒を廃し,627名を諸国に配流するなど,紛争を通じて学侶の主導権を認めるとともに,一方では教団の統制をきびしくした。1868年(明治1)維新政府は学侶,行人,聖の三派を解体し,翌69年青巌寺(学侶)と興山寺(行人)を廃して金剛峯寺とし,一山の総称から初めて寺務所としての金剛峯寺が成立した。現在高野山真言宗の総本山。
→高野山
執筆者:和多 秀乗
空海が真言密教の根本道場として開いた高野山の伽藍は,2基の多宝塔を東西に配し,それぞれに胎蔵界,金剛界の五智如来を安置して伽藍の中心に据え,両界曼荼羅の世界を高野壇上に具現したもので,現状は新しいが当初の形態を踏襲して再建されている。山内最古の建築である金剛峯寺不動堂は1197年(建久8)八条院の御願になり,平安時代の住宅風仏堂の様式を伝えるが,様式上は鎌倉時代中期まで下る。金剛三昧院多宝塔(1224ころ)は石山寺に次ぐ古い多宝塔で,近接する経蔵も同時期の建立である。その他の建物は徳川家霊台(1643),金剛峯寺大門(1705)など江戸時代のものが多く,子院の客殿,庫裡は中世の名残をとどめた独特の間取りをもつ。庭園では普門院,天徳院の庭園が小堀遠州作として著名。石造物には九度山慈尊院から金堂を経て奥院に至る216町の町石卒塔婆(13世紀後半,文永年間建立),松平秀康霊屋(1607)のほか,諸国大名などの多くの供養碑がある。
高野山は空海の開創以来の度重なる火災,衰退にもかかわらず各時代にわたる多くの宝物を蔵している。開創以前の宝物では,奈良前期の銅造阿閦(あしゆく)如来立像(親王院),鋳出銅板三尊仏(奥院),また細字金光明最勝王経2巻,大字法華経7巻,紫紙金字金光明最勝王経10巻(以上竜光院),不空羂索神変真言経18巻(三宝院)などの奈良時代経巻のほか,空海入唐以前の筆跡として著名な〈聾瞽(ろうこ)指帰(三教指帰)〉がある。刻白檀仏菩薩金剛等像一龕(金剛峯寺)は空海の唐からの請来目録に著され,俱梨伽羅竜剣(竜光院)や金銅仏具(金剛峯寺)なども大師請来品と伝える。高野山草創期の造像としては西塔本尊大日如来像(金剛峯寺),弘法大師母公御廟本尊弥勒仏像(慈尊院,892)のほか,1926年金堂とともに焼失して写真のみ残る日本最初の密教尊像が知られ,この系統を引いて不動明王像(正智院,10世紀),不動明王像(南院),兜跋毘沙門天立像(親王院,平安中期)が造られる。994年(正暦5)の大火によって高野山は一時衰退するが,平安時代後期には復興して多くの子院が建立され目ざましく発展する。丈六阿弥陀如来像(地蔵院),阿弥陀如来像(金剛峯寺)など造仏は盛んで,絵画では日本最古の仏涅槃図(八幡講,1086)をはじめ,善女竜王図(金剛峯寺,1145),両界曼荼羅(別名血曼荼羅。八幡講,1156),伝船中湧現観音(竜光院),阿弥陀聖衆来迎図(八幡講),勤操僧正像(普門院)などは日本美術史上の代表的な作品として名高い。文書では《文館詞林》12巻(正智院,10世紀末)や,藤原末期の装飾経色紙法華経1巻,中尊寺の清衡願経であった紺紙金銀泥一切経8982巻(金剛峯寺)がある。
鎌倉時代に入ると高野山は真言宗の一中心地としての地位が確立し,念仏信仰が盛大になり,大師信仰が興るなど高野山の美術は多彩に彩られる。仏像では快慶作の孔雀明王像(金剛峯寺),阿弥陀三尊像(光台院),阿弥陀如来立像(遍照光院),伝運慶作の八大童子立像(金剛峯寺)などがある。彫刻よりも仏教絵画に鎌倉美術の特色があらわれ,両頭愛染曼荼羅図(金剛峯寺),五大虚空蔵菩薩図(西南院),信仰成就阿弥陀三尊図(蓮華三昧院),八宗論大日如来図(竜泉院。弘法大師影像),丹生・狩場明神像(竜光院。高野山地主神)など多彩である。文書においては,南都春日版に刺激されて建長(1249-56)ころから始まった経典出版は高野山を印刷文化の一大根拠地となし,高野山の真言教学を一層進捗させ,文書類の保存整理も始められた。《宝簡集》521巻(正・続・又続)は平安時代876年から江戸時代1743年に至る約870年間の文書を集成した,高野山の歴史研究に欠かせない重要史料である。室町時代以降は高野聖によって地方に高野信仰がひろげられ,地方武士との交渉を示す浅井長政像(持明院)などの肖像画を残すほか,水墨山水図襖絵・直庵筆鶏図屛風一双(宝亀院),南画の大成者池大雅筆の襖絵山水人物図10面(遍照光院)などがある。
執筆者:宮本 長二郎
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壇上伽藍の東方、
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和歌山県伊都(いと)郡高野(こうや)町高野山にある高野山真言(しんごん)宗の総本山。816年(弘仁7)空海の開創。寺名は『金剛峯楼閣瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくゆがゆぎきょう)』によって空海が名づけたもので、高野山の一山の総称でもあった。古くは青巌寺(せいがんじ)ともいった。1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の援助を受けて木食応其(もくじきおうご)が青巌寺を再興し、その左隣に興山寺(こうさんじ)を建立した。1869年(明治2)この両寺を併合して金剛峯寺と改称。主殿は1863年(文久3)の再建で、東西30間、南北35間ある。大広間・梅の間の襖絵(ふすまえ)は狩野探幽(かのうたんゆう)の筆、柳の間は豊臣秀次(ひでつぐ)の自刃の間を再現したもので、狩野探斎(たんさい)筆の柳の襖絵がある。主殿に付属する建物に、奥殿、新別殿、別殿、経蔵(きょうぞう)、鐘楼、勅使(ちょくし)門、上門、下門、真然(しんぜん)堂、護摩堂、阿字観(あじかん)道場、高野山真言宗宗務所などがある。奥殿、別殿は1934年(昭和9)、新別殿は1983年(昭和58)の建立。六時の鐘の梵鐘(ぼんしょう)は1618年(元和4)に福島正則(まさのり)が寄進したもの。鐘楼は1835年(天保6)の建立。大師教会本部の建物は1925年(大正14)の建立で、1983年に増築された。金剛峯寺所蔵の国宝・国重要文化財などは高野山霊宝館に収める。
[宮坂宥勝]
『『古寺巡礼 西国1 高野山金剛峯寺』(1981・淡交社)』
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…紀伊国伊都郡(現,和歌山県橋本市,伊都郡高野口町,九度山町,かつらぎ町)の荘園。高野山金剛峯寺の根本寺領で,政所荘,高野本荘,金剛峯寺荘などともいう。紀ノ川をはさんで,北は河内国南堺から南は高野山麓におよび,東は相賀(おうが)荘,西は桛田(かせだ)荘に接する広大な荘園である。…
…式内社31座のうち,13座が名神大社であった(《延喜式》《和名抄》)。古代,紀ノ川流域に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ),粉河寺(こかわでら)等が開創され,南部の熊野大社とともに貴賤の信仰を集め,平安中期以降は院や摂関家による高野山,熊野参詣がさかんに行われた。同じころから,これらの寺社領をはじめ多数の荘園が設立された。…
…このころ《弁顕密二教論》2巻を著し,816年5月,泰範の去就をめぐって,最澄との間に密教理解の根本的な相違を表明してついに決別した。 同年7月,勅許を得て高野山金剛峯寺を開創したが,819年ころから《広付法伝》2巻,《即身成仏義》《声字実相義》《吽字義(うんじぎ)》《文鏡秘府論》6巻,820年《文筆眼心抄》などを著述して,その思想的立場と教理体系を明らかにした。820年10月伝灯大法師位,821年5月には請われて讃岐国満濃池を修築し,土木工事の技術と指導力に才能を発揮した。…
…周囲の山塊は紀ノ川支流の丹生川,貴志川と有田川,十津(とつ)川の源流となっている。9世紀に空海がこの地に真言宗金剛峯寺を創建し,以後比叡山延暦寺と並ぶ山岳仏教の中心地として現在に至っている。明治末までに和歌山線が開通し,大正末までに南海電鉄高野線が極楽橋まで,昭和初めに南海高野ケーブルが高野山まで開通して京阪神からの交通の便がよくなり,観光客も多数訪れる。…
…高野山金剛峯寺ならびに山内の各子院に伝来した古文書の総称。このうち最も重要なものが宝簡集,続宝簡集,又続(ゆうぞく)宝簡集と呼ばれる文書群で,宝簡集54巻692通,続宝簡集77巻・6帖831通,又続宝簡集167巻・9帖1979通からなっている。…
…平安京の京内は,東寺,西寺の2官寺のみとして他に官私の寺は建立させず,京郊外に多数の私寺ができた。唐から密教を伝えた最澄は比叡山に天台宗の延暦寺を,空海は高野山に金剛峯寺を建てる。山上なので一定の伽藍配置をもたず,宝塔などを中心に講堂,灌頂堂,常行三昧堂,法華三昧堂などを院ごとにまとめて置き,100余年後に完成した。…
… 美術工芸では,最澄請来の遺品は,延暦寺の災火により失われ,わずかに〈七条刺納袈裟〉が存するにすぎない。これに対して空海の請来品には,《真言五祖像》,密教法具,犍陀穀糸(けんだこくし)袈裟(すべて教王護国寺),木造諸尊仏龕(金剛峯寺)等があり,それぞれに唐朝様の特色がよく現れている。また空海は帰国後高雄山寺(神護寺)を拠点としたが,天長年間(824‐834)淳和天皇の発願により,灌頂堂のために,請来の〈両界曼荼羅〉をもとに金銀泥絵でこれを描かせた。…
…1572年(元亀3)高野山で出家し客僧となり,木食苦行して小野,広沢の2法流を受け,また仁和寺任助親王の室に入って阿闍梨位(あじやりい)を得た。85年(天正13)豊臣秀吉と高野山金剛峯寺との間を斡旋して豊臣政権下における高野山の地位を安泰に導き,91年の検地に際し非法が発覚した際にもとりなした。秀吉が深く信任して,“高野の木食”ではなく,木食の高野であると称したことは有名。…
※「金剛峯寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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