舞草村(読み)もうくさむら

日本歴史地名大系 「舞草村」の解説

舞草村
もうくさむら

[現在地名]一関市舞川まいかわ

相川あいかわ村の西、北上川東岸にある。北上高地の南西端に位置し、北西には観音かんのん(三二五・二メートル)がそびえる。朱鳥元年(六八六)年紀をもつ刀剣が発見され、「陸奥舞草住人安部忌寸安戻作」の銘があったとされる。寛永一九年(一六四二)の舞草村検地帳(佐藤文書)によれば、田二三町七反余・代二七貫九五〇文、畑一六二町五反余・代六七貫七四九文、茶畑一畝余・代三四文、名請人数六九。近世初期までは西部の北上川沿い一帯の舞草村と南東寄りの羽場はば村の二ヵ村に分れていたが、寛永一九年の検地後、舞草村一村となった。村名はまいくさ、もくさともよばれる。正保郷帳では田二八貫七一四文・畑三八貫四一九文、ほかに新田一貫六一六文があり、水損と注記される。「安永風土記」では田三五貫六九九文、畑六〇貫九〇文(うち茶畑三四文)、うち蔵入一四貫五〇九文・給所八一貫二七六文(ただし合計は合わない)。人頭二一八、家数二二八(うち水呑一〇)、男六九三・女五九六、馬一六三、小舟八・大かっこ舟一一・かっこ舟二九・瀬取艀舟一。御林二、堤三六がある。代数有之百姓は一九人、産物として麻・煙草・紅花、小名は木戸きどみね蓬田よもぎだ穴倉あなくら小和巻こわまき門畑もんはた地蔵堂じぞうどう干草ひぐさ鍛冶妻かじめ壱本木いつぽんぎ、屋敷名八一をあげる。北上川沿いの田畑耕作のための作場渡船が多く、また御本石蔵と雑穀蔵二棟があった。

寛政九年(一七九七)の仙北十郡百姓一揆の折には、田河津たこうづ(現東磐井郡東山町)小島おじま長部おさべ(現西磐井郡平泉町)相川村の農民たちが観音山に集まった(「仙台領騒動記」小林文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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