観音(読み)かんのん

精選版 日本国語大辞典 「観音」の意味・読み・例文・類語

かん‐のん クヮンオン【観音】

(Avalokiteśvara の訳語。「かんぜおん(観世音)」の略。「かんおん」の連声)
[1] 仏語。菩薩の一つ。世の衆生がその名を唱える音声を観じて、大慈大悲を垂れ、解脱を得させるという菩薩。また、勢至菩薩と共に、阿彌陀如来の脇侍。普通、勢至がその宝冠の中に宝瓶をつけるのに対し、化仏をつける。諸菩薩のうち最も広く崇拝される。その形の異なるに従い、聖観音千手観音、十一面観音、不空羂索観音、馬頭観音、如意輪観音などの名称があるが、普通には聖観音をさす。楊柳、魚籃(ぎょらん)などの三十三観音もある。観音菩薩観音薩埵(かんのんさった)。観自在。観自在菩薩。観世自在。観世自在菩薩。観世音菩薩。観世音。
※霊異記(810‐824)上「心に観音を念ずるに」
※源氏(1001‐14頃)夢浮橋「くゎんをんのたまへると喜び思ひて」
[2] 〘名〙
① 観音を本尊としている寺。特に、東京浅草の浅草寺(せんそうじ)をいう。
※俳諧・末若葉(1697)下「観音のいらがみやりつ花の雲〈芭蕉〉」
※黄表紙・御存商売物(1782)中「くゎんおんへ参詣する」
③ (頭部の近くに、足がかたまって生えているシラミの姿が、千手観音の姿に似ているところから) シラミの俗称。観世音。かんのんさま。
※雑俳・柳多留‐七三(1821)「観音を大きくおがむ虫めがね
④ 女陰をいう。かんのんさま。
東京新繁昌記(1874‐76)〈服部誠一〉初「絃妓の転じて而して紅幕を開き、微に観音の顔を露す者有り」

かん‐おん クヮン‥【観音】

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デジタル大辞泉 「観音」の意味・読み・例文・類語

かんのん〔クワンオン〕【観音】

《「かんおん」の連声れんじょう》「観世音菩薩かんぜおんぼさつ」の略。

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改訂新版 世界大百科事典 「観音」の意味・わかりやすい解説

観音 (かんのん)

観世音の略称。慈悲を徳とし,最も広く信仰される菩薩。阿弥陀仏の脇侍としてのほかに,単独でも信仰の対象となる。標準的な姿の聖(正)観音のほかに異形の観音が多い。観音の起源にはヒンドゥー教のシバ神の影響が考えられる。クシャーナ朝時代の貨幣にシバ神の像が打刻されているが,その像にオエショOeshoという神名が刻まれている。オエショはおそらくサンスクリット語イーシャĪśaのなまりで,イーシャは〈主〉を意味し,シバ神の異称となっている。インド一般ではイーシャの代りにこれと同じ意味をもつイーシュバラĪśvaraの呼称も用いられ,これを中国仏教では〈自在〉と訳す。オエショの像のある貨幣の重要さからみて,当時この神の信仰は非常に盛んであったことがわかり,この信仰が大乗仏教に観世音菩薩を生み出す契機をもたらしたと思われる。仏教ではイーシュバラにその属性を示す修飾語〈見守るものavalokikā〉をつけてアバローキテーシュバラAvalokiteśvaraとしたものと思われる。正規の梵語を知る玄奘(7世紀)はこれを〈観自在〉と訳した。初期の漢訳者は〈観世音〉とか〈光世音〉とか訳したが,彼らはこの名の中に〈音svara〉や〈光ruc〉の語が含まれていると信じたらしい。貨幣におけるオエショの図像的表現には多面多臂のものがある。これは〈十一面観音〉や〈千手観音〉の表現に通ずる。輪状の綱を持つ図は〈不空羂索(けんさく)観音〉に通ずる。危難に際して観音が救いの手を差し伸べてくれるという信仰はすでにインドに始まり,ボンベイ(現,ムンバイー)近くのカンヘーリの石窟に観音が猛獣や盗賊や難船から人を助ける場面が刻せられている。5世紀初頭に法顕は南海で嵐にあったとき観音に祈った。《法華経》中の観世音菩薩普門品に同類の思想がみられ,この品が日本人の観音信仰の支えになっている。観音のサンスクリット名は男性名詞であるが,観音に種々の変化身があるため,オリエント(イランを含む)の母神信仰的要素がこれを通じて仏教に入りこみ,〈准胝観音〉,〈馬郎婦観音〉,〈多羅尊観音〉などを生み出した。観音の浄土は補陀落Potalakaと呼ばれる。
補陀落渡海(ふだらくとかい)
執筆者:

《法華経》の観世音菩薩普門品の教説にもとづいて観音信仰はおこった。西晋の竺法護が《正法華経》を訳出してまもなくの3世紀末に,洛陽にいた竺長舒が《観音経》を誦して火災を免れた話が伝えられている。後秦のクマーラジーバ鳩摩羅什)が《妙法蓮華経》を再訳してからは,観音信仰はしだいに隆盛となり,東晋末にはすでにかなりの観音像が造られた。北涼の曇無讖(どんむしん)がパミールを越えて河西に行き,王の沮渠蒙遜の難病をみて,観音菩薩はこの地に縁があるといって普門品を念誦することをすすめ,病苦を除いたことから,普門品だけを単独に流布することになったといわれる。これが《観音経》である。観音信仰の流行にともない,《高王観世音経》をはじめとする諸経も製作されるとともに,晋の謝敷の《観世音応験伝》,宋の劉義慶の《宣験記》といった観音霊験記が撰せられた。《観音経》つまり《法華経》普門品には,〈もし多くの人達が諸種の苦悩を受けたときに,この観世音菩薩のことを聞いて,一心にその名を称えるならば,観世音菩薩は即時にその音声を観じて,みな解脱させてくれる〉とある。その例は以下の如しとして,観音菩薩の名を称すれば,大火の難,大水の難,羅刹の難,刀杖の難,悪鬼の難,杻械枷鎖の難,怨賊の難などの七難をまぬかれると説く,いわば現世利益の教説は,中国社会に広く受容されたのである。ちなみに,《観音経》には観音の姿がいかなるものであるかについての言及はない。ところが,浄土教経典の一つで中国撰述経と考えられている《観無量寿経》には,阿弥陀仏の脇侍としての観音の像容がかなり詳しく説かれている。

 唐の高宗,則天武后の時期は,中国仏教の極盛期であるが,この時期には浄土教による西方浄土信仰が隆盛となり,観音像の造像は阿弥陀仏の脇侍の菩薩としての姿が目だつようになる。つまり観音信仰は西方浄土信仰と密接に結びついた形で現れたのである。ついで唐後半期に,今度は密教が流布し,観音についての儀軌,造像の法などを説くに至って,ふたたび単独の観音像が作られ,いわゆる変化観音像を生みだした。十一面観音,不空羂索観音,千手観音が現れ,蓮華手に代わって楊柳観音像が無数に造られ,信仰された。宋代以後,禅宗を除いて,仏教は一般に衰退したのに,観音信仰だけはあらゆる階層に浸透流行し,一般民衆の生活と深い関連をもったのである。観音の霊場として最も崇信されたのは,浙江省舟山列島の普陀山で,文殊をまつる山西省の五台山,普賢をまつる四川省の峨嵋山とともに,天下の三大仏教道場とされた。とくに海上商人や漁師の信仰をうけたこの普陀山の開基は,日本の入唐僧の慧萼と伝えられている。浙江省の紹興から寧波(ニンポー)を通って普陀山にいたる観音霊場まわりが流行し,その場面が絵画に描かれたりした。そして七難からの解脱とともに,観音を礼拝すれば財を蓄え福を致すことができるとして観音を信仰する者も増えてきたのである。
執筆者:

日本に現存する観音像で,銘文により製作年代が確定できる最古の像は,辛亥(651・白雉2)年銘の白鳳時代の金銅像である。しかし,無銘だが様式からみて,より古い飛鳥時代の作と推定しうる観音像がいくつか現存し,また中国北魏仏教で観音造像が盛んであったことから考えても,観音像はすでに飛鳥時代に伝来していたと思われる。8世紀の奈良時代になると観音造像は急増し,千手・十一面・不空羂索・馬頭など変化(へんげ)観音像も盛んに現れてくる。740年(天平12)の藤原広嗣の乱の際,国ごとに7尺観音像を造って反乱鎮圧を祈り,あるいは9世紀初めの《日本霊異記》が観音を念じて災をまぬがれ福徳を得た説話を多数収めているように,8~9世紀の観音信仰は,もっぱら現世利益中心であった。しかし10世紀ころを境として律令国家の衰退と藤原摂関体制成立にともなう社会変動が顕著となり,旧秩序解体の不安の下で,来世における個人の救済を志向する浄土教が発達するにつれ,観音信仰も六道抜苦の来世信仰としての性格を帯びるようになる。こうした来世的観音信仰は,まず菅原道真,源兼明など藤原氏に疎外された10世紀の没落貴族を中心に形成され,やがて六観音信仰に発展した。六観音とは天台宗の《摩訶止観》に説くところで,六道の煩悩を破砕するという大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の6体の観音のことである。この教えに従い,また中国の六観音信仰発達にも刺激されて,6体の観音像によって輪廻無常の六道の苦を逃れ浄土に往生しようと願う信仰が10世紀中ごろから貴族社会で流行しはじめる。11世紀になると,《摩訶止観》の六観音は密教の観音の変化であるとする説が,真言宗の僧仁海らによって説かれ,以後,六観音といえば密教の観音6体をさすのが普通になった。東密の六観音は聖・千手・馬頭・十一面・准胝・如意輪であり,台密では准胝の代りに不空羂索を数える。こうして観音は現当二世の利益絶大な菩薩として社会各層に広く信奉され,霊験ある観音像を本尊とする寺院への参詣も盛んになった。すでに10世紀末,石山・清水・鞍馬・長谷・壺坂・粉河などの観音寺院が広くその名を知られたが,11~12世紀になると,仏教の世俗化に反発して教団を離脱した念仏聖の別所などを中心に,新しい観音霊場も各地に多数形成された。これら霊場には,念仏聖の講会に結縁し本尊観音の現当二世の利益にあずかろうとする信者が集い,さらに各霊場を結ぶ修験的な聖の巡礼も始まって,いわゆる三十三所巡礼へと発展するのである。西国三十三所巡礼の創始者を10世紀の花山法皇に擬する伝承があるが,これはまったく信ずるに足りない。あるいは園城寺(三井寺)の僧行尊に始まったとする説もあるが,史料的にもっとも確実なのは,1161年(応保1),園城寺の僧覚忠が熊野那智から御室戸まで観音霊場三十三所を巡礼したという《寺門高僧記》の記載である。当初の三十三所巡礼は修験的色彩が強く,札所の順序も現在と異なるが,15世紀ごろから一般信者も参加する巡礼の大衆化が進み,那智青岸渡寺に始まり美濃谷汲寺に終わる札所の順序や巡礼歌をはじめ,現在の巡礼の諸形態がほぼ形成された。一方,鎌倉幕府の成立にともない,13世紀には西国巡礼にならった坂東三十三所巡礼が発達したが,さらに15世紀には秩父三十三所が成立した。16世紀には,秩父札所が三十四所に改めることで西国・坂東との一体性を強調した結果,西国・坂東・秩父のいわゆる百所巡礼も始まった。巡礼の大衆化は江戸時代に絶頂に達し,全国各地に形成された三十三所は100余におよぶという。

 こうした各地の三十三所巡礼は,あるいは近世町人のレクリエーション,あるいは地域成員の通過儀礼など,さまざまの意味あいを兼ねながら観音信仰の民衆的底辺を拡大し,その伝統は今日に続いているのである。
執筆者:

観音が持つさまざまな威力のそれぞれを個別に神格化したために十一面観音千手観音などの観音像が表現されたが,こうした変化観音とは異なり変化しない本然の観音を聖観音と呼んで区別している。聖観音像は,密教と顕教とを問わずほとんどの経典に説かれているが,その像容は,密教経典に説かれ両界曼荼羅の中に描かれるものと,顕教の経典に説かれるものとに分けられる。顕教的な観音像は《観無量寿経》《無量寿経》などに説かれ,極楽浄土にあって阿弥陀如来の脇侍として表されるものと,《法華経》《大仏頂首楞厳(りようごん)経》などに説かれる,一切衆生を救うためさまざまな状況に応じてさまざまな姿に変じて出現するもの(応現身)とがある。《法華経》観世音菩薩普門品には33の応現身を説く。密教の観音像は,両界曼荼羅の中の胎蔵界曼荼羅に4ヵ所描かれていて,両界図(胎蔵界)の像容を述べた《諸説不同記》などに記されている。顕教の経典では像容について簡単に記述したのみであったので,比較的自由に解釈され表現されている。ただし,変化観音も含めて観音像に共通する特色は,化仏(けぶつ)をつけた冠をかぶることである。密教の聖観音では,胎蔵界曼荼羅観音院に描かれる,左手に蓮茎を持つ姿の像が多く造られた。変化観音には前述の六観音のほかに白衣観音と水月観音が,画技をよくする禅僧によって水墨画として鎌倉・室町時代に多数描かれた。これらは礼拝の対象となる本尊画とみなされるより筆者の精神の表出が注目されていた。平安初期に空海が真言密教を体系的に日本に伝えてからは,聖観音像は曼荼羅の中の像と同じ姿の作品が多く造られたが,それ以前の聖観音像は種々な姿に表現された傑作が多い。

 飛鳥・白鳳時代の作例には,法隆寺百済観音像,同寺夢違観音像,同寺夢殿の救世観音像があり,薬師寺東院堂には聖観音像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音は,浄土教美術における阿弥陀来迎図にあって往生者を納める蓮花座を捧げ持ち,来迎の聖衆の先頭に描かれる例が多い。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「観音」の意味・わかりやすい解説

観音【かんのん】

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ),観自在,観世自在などとも。世間の出来事を自在に観察する意。救いを求める者の心に応じ,千変万化するという。普通,勢至(せいし)菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍であり,摩頼耶山(まらやさん)中の補陀落(ふだらく)に住み,中国では舟山列島中の普陀山普済寺,日本では那智山が当てられる。地蔵とともに日本の民間信仰に深く根をおろし,33の化身をもつといわれ(西国三十三所の観音霊場はその例),千手(せんじゅ),十一面,如意輪(にょいりん),准胝(じゅんてい),馬頭(ばとう),聖(しょう)を六観音,不空羂索(ふくうけんじゃく)を含めて七観音という。
→関連項目救世観音守護霊蒋子成僧堂普陀落山船霊

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「観音」の解説

観音(かんのん)
Avalokiteśvara/Avalokitasvara

大乗仏教の慈悲と救済を表す代表的菩薩(ぼさつ)。観世音(かんぜおん),観自在(かんじざい)とも漢訳。『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)普門品(ふもんぼん)によると,苦しむ衆生(しゅじょう)が一心に観音の名を称えればその声でただちに救いに現れるので,この名称ありという。チベットのダライラマはその化身(けしん)とされ,ポタラ宮は観音居所の南海ポータラカ(補陀洛山(ふだらくさん))にちなんだ命名。中世以降の中国,日本で観音信仰は隆盛をきわめ,多くの霊場ができた。密教の影響下に千手(せんじゅ)や十一面などの変化観音が出現した。また勢至(せいし)とともに阿弥陀仏(あみだぶつ)の脇侍(わきじ)とされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「観音」の意味・わかりやすい解説

観音
かんのん

観世音菩薩

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世界大百科事典(旧版)内の観音の言及

【縁日】より

…それが縁日で,縁とは,〈結縁(けちえん)〉または〈有縁(うえん)〉あるいは〈因縁(いんねん)〉のことで,特定の仏菩薩が,特定の日に,特別に霊験あらたかになるように信者の祈願と結びつくのである。たとえば7月10日は観音の四万六千日(しまんろくせんにち)といって,この日に参詣すれば,その功徳は,4万6000回参詣したのと同じになると説かれたりしている。中国仏教では,10世紀初頭に,寺院で縁日がそれぞれ配当されていた事実があったらしいがくわしくはわからない。…

【瓶】より

…前者はおもに飲料水などを入れるための水瓶(すいびよう)で,大乗仏教では出家者の所有すべきたいせつな持物(〈十八物(じゆうはちもつ)〉)の一つとされた。菩薩,とくに観音像の中には,この水瓶を手にした姿のものも少なくない。後者はおもに密教において,曼荼羅(まんだら)の諸尊の供養のために五宝,五香,五薬,五穀,香水などを収める容器として用いられ,宝瓶,賢瓶などともいわれる。…

【補陀落山】より

…観音菩薩の浄土。サンスクリットのポータラカPotalakaの音訳。…

※「観音」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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