舞谷村(読み)まいのやむら

日本歴史地名大系 「舞谷村」の解説

舞谷村
まいのやむら

[現在地名]福岡町舞谷

赤丸あかまる村の北西清水きよみず山・じようひら山のある山間村。集落は二つの山の谷間にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に舞谷とみえ役家数一一、赤丸組に属した。正保郷帳では高三〇〇石余、田方一四町三反余・畑方五町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一九石、免七ツ五歩、小物成は山役一三五匁(三箇国高物成帳)。文政四年(一八二一)の宮島組七一ヵ村草高免付品々帳(杉野家文書)によれば、貞享元年(一六八四)川崩れにより高七四石が検地引され、草高二四五石、百姓数四五。天保一四年(一八四三)には二千九六歩(高八石余に相当)の田に菅を作付していた(「菅一件留帳」窪田家文書)


舞谷村
まいだにむら

[現在地名]輪島市町野町舞谷まちのまちまいだに

佐野さの村の南東舞谷御前まいだにごぜん(三六七・八メートル)の南麓に位置。正保郷帳によれば長尾なご(現柳田村)円山まるやま村・舞谷村が並記され、高三七四石余、田方一七町五反余・畑方七町三反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二〇石余、免四ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二三石、免四ツ三歩、小物成は山役九匁・漆役二匁(三箇国高物成帳)。江戸後期の粟蔵組村鑑(粟倉文書)によれば高は寛文一〇年時とほぼ同じで、田高一五石余・畑高六石・屋敷高一石余、家数六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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