福岡町(読み)ふくおかまち

日本歴史地名大系 「福岡町」の解説

福岡町
ふくおかまち

面積:五八・七六平方キロ

西礪波郡の北部に位置し、東は高岡市、西は小矢部おやべ市、南は砺波となみ市、北は氷見ひみ市と石川県押水おしみず町・津幡つばた町。小矢部川南東部を北東流し、その右岸を岸渡がんど川・荒俣あらまた川が北流し、右岸に黒石くろいし川、左岸に西明寺さいみようじ川が合流する。小矢部川右岸は礪波平野の西端部、左岸は大部分が山地・丘陵地。北部山間の沢川そうごうに発する子撫こなで川は当町を南西流し小矢部市域へ抜ける。小矢部川右岸をJR北陸本線が通り、福岡駅がある。国道八号がほぼ並走する。左岸には県道押水―福岡線、下向田しもむくた山岸やまぎし線などが通る。

小矢部川左岸の山際に縄文時代から弥生時代・古墳時代・平安時代にわたる上野うわのA遺跡や上野古墳群・下向田古墳群・じようひら横穴墓群・馬場ばんば横穴墓群・加茂かも横穴墓群などの遺跡が集中している。子撫川流域にも旧石器時代・縄文時代の遺跡が散在する。

福岡町
ふくおかまち

[現在地名]福岡町福岡

現福岡町域の南東部、小矢部おやべ川右岸低地に立地。慶長一四年(一六〇九)高岡城築城によって北陸街道が一部付替えられて当地が街道沿いとなり町場を形成、のち在郷町として発展した。町名は加賀国石川郡福岡村(現石川県河内村)の土豪結城七郎が当地内の大野おおのに土着、のち結城氏の古屋敷地に町立てしたことに由来するという(福岡町史)。ただし近世を通じ公的には四十万しじま村・稗島ひじま村の一部で、町場商人の把握上、福岡町(当初は福岡新町)と称され(弘化三年「町立所書上留」菊池家文書)、地子銀は四十万村が一括して納めている(寛文一〇年「村御印」三箇国高物成帳ほか)。行政的に独立したのは明治一七年(一八八四)で、四十万・稗島両村が合併して福岡町が成立した(「四十万村・稗島村合村契約書」福岡町歴史民俗資料館蔵)

増補大路水経」に承応年中(一六五二―五五)に町立てされたとあり、明暦二年(一六五六)の地子米皆済状(杉野家文書)に「福岡新町」とみえ、同元年分の地子米一六石を皆済している。

福岡町
ふくおかまち

[現在地名]相良町福岡

市場いちんば町の南東に位置し、南西は波津はづ村。相良城の築城後は相良三町とともに相良城下四町の一となる(相良史)。近世初期はとく村の内。福岡町成立以前の慶長年間(一五九六―一六一五)、当地の西尾太郎兵衛は廻船年寄役を命ぜられており、すでに当地には廻船問屋・船主・水主・船大工が居住していた。また寛永元年(一六二四)には仏門に入った太郎兵衛(浄心日清)によって日蓮宗浄心じようしん寺が開創されている(編年相良町史)

福岡町
ふくおかちよう

面積:八四・一二平方キロ

ほぼ中央を南流する付知つけち川の河岸段丘を中心に発達し、東は川上かわうえ村・坂下さかした町、南は中津川市、西は蛭川ひるかわ村と二ッ森ふたつもり山・切越きりこし峠を境に加茂郡白川しらかわ町・東白川村、北は付知町に接する。国道二五七号がおよそ付知川に沿って南北にほぼ中央を貫いている。現在は恵北地区の中心地で、農協本部をはじめ教育研究所などがある。産業は農業を中心に牧畜・養蚕・林業などである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福岡町の言及

【上福岡[市]】より

…埼玉県南部の市。1972年入間郡福岡町が市制を施行し同時に上福岡市と改称。人口5万6786(1995)。…

※「福岡町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」