船形村(読み)ふなかたむら

日本歴史地名大系 「船形村」の解説

船形村
ふなかたむら

[現在地名]成田市船形・吾妻あづま一―三丁目・玉造たまつくり四丁目

八代やつしろ村の南西に位置し、西は印旛いんば沼に面する。船方とも書き、印旛郡に属する。薬師寺が所蔵する応長元年(一三一一)一一月日付の梵鐘の銘文に「下州印東庄八代郷船方 薬師寺」とみえる。この鐘は宍戸鳴井ししどなるい(現茨城県八郷町)の鋳物師善性の作で、当地と常陸との水運を介した密接な結び付きがうかがえる。文禄三年(一五九四)検地帳(太田家文書)に印幡郡印東いんとう舟形村とある。元禄郷帳では高四〇九石余。享保一六年(一七三一)佐倉牧のうち内野うちの牧の一部を開発した新田一七石余、安永二年(一七七三)に埜地を開発した新田一三石余が加わって高四四〇石余となる(太田家文書)


船形村
ふなかたむら

[現在地名]館山市船形

川名かわな村の西に位置し、南はかがみヶ浦に臨む。地内に中世の船形城跡がある。川名村から分村したと伝え(正木家文書)、近世にはへい(はじめ北郡)のうちであった。天正二〇年(一五九二)と推定される八月一日の里見義康寄進状写(鶴谷八幡宮文書)によると鶴谷つるがや八幡宮の放生会のために供物として神主・命婦・禰宜に対して船形からの供物三〇俵に、「舟方之津」より出させる船一艘・幣紙・幣串、俵子(ナマコ)一俵を差添えて渡している。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録には舟形村とみえ、高三六一石余(うち田三〇五石余)。同一五年の里見家分限帳では川名村長勝ちようしよう(普門院)領一石余のほかは里見氏直轄地。正保郷帳では田高四四六石余・畑高八八石余で、旗本石川領五三三石余・同三枝領二石余の相給。


船形村
ふなかたむら

[現在地名]野田市船形

中里なかさと村の南東利根川右岸に位置する。集落の東手、利根川との間には沼が広がっていた。地内の関根家墓地や谷津やつさきには延慶三年(一三一〇)銘・嘉暦三年(一三二八)銘・応永二〇年(一四一三)銘のものなど多くの武蔵型板碑が残されている。天正二年(一五七四)一二月二日の古河公方足利義氏の料所目録(喜連川文書)には庄内河辺のうちとして「ふなかた」とあり、閑馬宗勝が知行していた。元和五年(一六一九)当時は幕府領、寛永一五年(一六三八)頃旗本一色領になったという(元文三年「訴状」山崎家文書、以下断りのない限り同文書)。寛永一一年の年貢割付状には舟形村とみえ、田方は高六三石余で納米は口米三石を含めて三八石余、畠方は反別九町四反余で口銭を含めて永一五貫七五四文余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android