日本歴史地名大系 「野田市」の解説 野田市のだし 面積:七三・七二平方キロ県の北西端部に位置し、北は東葛飾(ひがしかつしか)郡関宿(せきやど)町、南は利根川と江戸川を結ぶ利根運河をほぼ境として流山市・柏市と接する。東の利根川対岸は茨城県水海道(みつかいどう)市・岩井市・北相馬(きたそうま)郡守谷(もりや)町、西の江戸川対岸は埼玉県吉川(よしかわ)市・松伏(まつぶし)町・庄和(しようわ)町。東武野田線・国道一六号が市域を縦断する。縄文時代中期から晩期にわたる野田貝塚(清水地区)・山崎(やまざき)貝塚、弥生時代中期の勢至久保(せしくぼ)遺跡(二ッ塚地区)、古墳時代初頭の土器様相を示す三ッ堀(みつぼり)遺跡などが知られる。古代には葛飾郡度毛(とも)郷(和名抄)に属していたとされるが未詳。平安末期から中世にかけて相馬御厨に含まれた一部を除き八条院領下河辺(しもこうべ)庄に属したと考えられる。市域では弘安元年(一二七八)銘のものをはじめとする鎌倉時代の二三基など合せて一〇〇基を超える武蔵型板碑があり、注目されている。一五世紀半ば古河公方足利成氏が野田城に野田有馬助を配したというが(鎌倉大草紙)、城跡を含めて未詳である。〔近世〕天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入部に伴い譜代の岡部長盛が下総・上総二国で一万二千石を与えられ、山崎に入部、翌一九年には堤台(つつみだい)に築城して移ったという。しかし長盛は慶長一四年(一六〇九)丹波国亀山(かめやま)(現京都府亀岡市)に移封された。岡部氏の時代から市宿と称され、町場であった野田町をはじめ市域のほとんどが葛飾郡に属していたが、利根川沿いの一部は猿島(さしま)郡であった。 野田市のだし 2003年6月6日:野田市が東葛飾郡関宿町を編入⇒【関宿町】千葉県:東葛飾郡⇒【野田市】千葉県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野田市」の意味・わかりやすい解説 野田〔市〕のだ 千葉県北西部,江戸川と利根川に挟まれた下総台地西端にある市。 1950年野田町と旭,七福 (ななふく) ,梅里の3村が合体して市制。 1957年福田,川間 (かわま) の2村,2003年関宿町を編入。水運による原料・製品輸送の便と消費市場の江戸に近い条件に恵まれ,近世以降は醤油醸造工業が発達。醤油の生産は国内最大。市街地背後に広がる台地では野菜栽培,川沿いでは米作など,農業も盛ん。市域を縦貫する東武鉄道野田線沿線の宅地化が進む。清水公園は桜の名所。隣接する旧花野井家住宅は国の重要文化財。面積 103.55km2。人口 15万2638(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by