船越義珍(読み)フナコシ ギチン

20世紀日本人名事典 「船越義珍」の解説

船越 義珍
フナコシ ギチン

明治〜昭和期の空手家 日本空手協会最高師範



生年
尚泰21年11月10日(1868年)

没年
昭和32(1957)年4月26日

出生地
琉球・首里(沖縄県那覇市)

別名
号=松濤

経歴
少年時代から、武術の達人・安里安恒、糸洲安恒に師事し、唐手(空手)を習う。一方、小卒後は独学、19歳の時に小学校準訓導検定試験に合格し、以後離沖まで30余年教員生活を送る。その間も空手修行をつづけ、沖縄尚武会会長に就任。大正11年、東京・お茶の水で開かれた古武・体育道展覧会に招待され、沖縄の秘技“空手”を公開演試した。そのまま東京に止まり、初め明正塾を小石川に設け、昭和9年本郷に松濤館を、更に10年目白雑司ケ谷に道場を開いた。14年自派を松濤流と名づける。また慶大早大、拓大、日本医大などに空手部を新設、師範を務めた。戦後、22年日本空手協会が設立されると同時に最高師範となった。著書「琉球拳法唐手」「空手道教範」「空手道一路」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「船越義珍」の解説

船越義珍 ふなこし-ぎちん

1868-1957 明治-昭和時代の武道家。
尚泰王21年11月10日生まれ。首里手(唐手)を安里安恒(あさと-あんこう),糸洲(いとす)安恒にまなぶ。小学校準訓導を30年余つとめ,沖縄尚武会会長,沖縄師範武道教師となる。大正11年より東京に定住して唐手の普及尽力。早大,慶大の師範もつとめた。昭和初期,唐手から空手に表記をかえ,昭和14年自派を松濤館(しょうとうかん)流と名づけた。昭和32年4月26日死去。88歳。琉球出身。号は松濤。姓は富名腰とも。著作に「空手道教範」。
格言など】空手に先手なし(「唐手二十箇条」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「船越義珍」の意味・わかりやすい解説

船越義珍
ふなこしぎちん

[生]明治1(1868).11.10. 沖縄,首里
[没]1957.4.26. 東京
日本の空手始祖。6歳の頃より唐手(からて。昭和初期以降は「空手」の表記が普及)の形(かた)を使い,11歳のとき安里安恒(あさとあんこう),糸洲安恒(いとすあんこう)に師事,昭林流,昭霊流の両流派をきわめた。1922年上京し,体育博覧会で唐手を紹介したのち,小石川に明正塾道場,本郷に松濤館を開設するなどして唐手の普及に努めた。1948年日本空手協会の設立とともに最高師範となる。主著『琉球拳法 唐手』『空手道教範』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の船越義珍の言及

【空手】より

…しかし,鍛練,伝授法などは武芸のもつ閉鎖的な特性から,あまり公にすることなく秘密裏に行われ,空手の名称も〈手(て)〉〈唐手(とうで)〉〈唐手(からて)〉,地域的には〈首里手(しゆりて)〉〈那覇手(なはて)〉〈泊手(とまりて)〉と呼ばれていた。 1922年文部省主催の体育展覧会で,船越義珍(1868‐1957。松濤館流始祖)が演武紹介して日本本土に伝え,東京を中心とした各大学に広めた。…

※「船越義珍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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