小石川台と
中世には現在の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都文京区西部の地区名。小日向・白山両台地とその間の低地を含む神田川北岸の地区を指すが,狭義には現在の1~5丁目の行政町名を指す。中世以来小石川の地名があったが,1878年関口,音羽など周辺地域を合わせて東京府小石川区が成立した。1947年本郷区と合併して東京都文京区となった。本郷台と小日向台を分ける小石川の谷には,共同印刷の本社工場をはじめ,製本・印刷工場が多い。台地上は静かな住宅地で,お茶の水女子大学,拓殖大学付近は文教地区となっている。最近は高層アパートや会社ビルが急速にふえている。もと水戸藩上屋敷の庭園であった後楽園は現在都立公園として公開され,東京ドーム(旧,後楽園球場)周辺にはレジャー施設,スポーツ施設が集中し,にぎわっている。
執筆者:正井 泰夫
古くは〈小石河〉とも記した。その由来には小石の多い小川があったことによるとの説(《江戸砂子》)などがある。地名の初見は1486年(文明18)であるが,〈小石河〉は室町末期の1448年(文安5)が初出である。当時の小石川は武蔵国豊島郡に属してかなりの発達を遂げていたと推定され,戦国期に後北条氏の家臣,江戸衆島津氏らの所領となり,1623年(元和9)には大部分が伝通院に寄進された。徳川家康の江戸入城(1590)後の都市域拡大にともない,それまで純農村であった当村の大半は元禄(1688-1704)ころまでに市街地化した。最大の面積を占めたのは武家地で,5代将軍綱吉の下屋敷であった白山御殿(のち小石川薬園など)や,後楽園を擁した水戸藩上屋敷はその代表ともいえる。このほか松平播磨守,小笠原山城守らの大名屋敷や火消屋敷(のち田辺藩安藤家上屋敷),小石川馬場などがあり,いずれも広大であった。しかし武家地としての第1の特徴は,慶長年中(1596-1615)から小石川台地を中心に展開した旗本,御家人らの小屋敷,組屋敷が多かったことである。なかでも切支丹同心,御先手同心ら下級幕臣の組屋敷である安房殿町,伝通院前同心町などは有名であった。寺社もまた多かった。寺院では伝通院,深光寺,円乗寺,神社では白山権現,牛天神,氷川社などである。その大部分が江戸期に入って当地域に創建された寺社であるが,法伝寺,喜雲寺,竜雲寺ほか数ヵ寺は,主として本郷,御茶の水から明暦の大火(1657)後に移転したものである。一方,町屋は武家屋敷や寺社の間隙を縫うかのように不規則に点在していた。最初に開けたのは,水戸藩邸から護国寺に通じる往還(春日通り)に面した地域である。伝通院の門前町である白壁町,陸尺町などは1602年に起立したという。さらに御鷹匠同心,御簞笥同心らの拝領町屋敷である富坂町,御簞笥町,百姓町屋である久保町,大塚町なども,1630年代には成立していた。その後も町地の拡大は続いたが,明暦の大火後は小規模な寺社門前町の簇生(そうせい)と百姓町屋の発展が目だった。
執筆者:大石 庄一
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東京都文京区南西部の地区。旧小石川区で、現文京区の西半部を占めていた。本郷(ほんごう)台と豊島(としま)台(大塚台と小日向(こびなた/こひなた)台)の間を流れる川は礫川とも書き、小石の多い川であったことが地名の由来。いま川は暗渠(あんきょ)となり、存在さえはっきりしない。台地面は、江戸時代には畑地が広く、武家屋敷、寺院、住宅がまばらにみられた。現在の小石川地区は明治以後、学園、住宅地として発展、また旧小石川の谷は出版・印刷業が集中している。伝通院(でんづういん)のほか、寺院が多い。
[沢田 清]
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