日本大百科全書(ニッポニカ) 「芳沢‐カラハン会議」の意味・わかりやすい解説
芳沢‐カラハン会議
よしざわからはんかいぎ
1925年(大正14)加藤高明(たかあき)内閣の時代に行われた。日ソ国交樹立の最終会議。1923年(大正12)9月、北京(ペキン)駐在のソビエト極東全権大使のカラハンは駐華公使芳沢謙吉(けんきち)を通じて日ソ正式交渉を提案してきたが、関東大震災の善後策に追われていた山本権兵衛(ごんべえ)内閣は積極的姿勢を示さなかった。しかし24年2月以降イギリス、イタリアなど各国の相次ぐソ連承認のなかで、清浦奎吾(きようらけいご)内閣は芳沢を全権に命じ同年5月北京で正式交渉に踏み切った。第二次護憲運動で清浦内閣が倒れたあとの加藤高明内閣は積極的に交渉に取り組んだが樺太(からふと)(サハリン)撤兵問題、北樺太利権問題で難航、44回の交渉の末、25年1月20日、日ソ基本条約の締結にこぎつけた。しかし日ソ国交樹立による国内共産主義勢力の増大を恐れた日本政府は、同年3月治安維持法を議会に提案し成立させた。
[由井正臣]
『信夫清三郎編『日本外交史Ⅱ』(1974・毎日新聞社)』