加藤高明(読み)かとうたかあき

精選版 日本国語大辞典 「加藤高明」の意味・読み・例文・類語

かとう‐たかあき【加藤高明】

政治家。本姓、服部。愛知県出身。東京帝国大学法科卒。岩崎彌太郎の女婿。三菱会社から官界に入り、伊藤、西園寺、桂内閣の外相を歴任。日英同盟に尽力、対露強硬論を唱え、第一次世界大戦では参戦と対華二一か条を主張、指導した。大正一三年(一九二四)憲政会総裁として護憲三派内閣の首相となり、普通選挙法治安維持法を制定。続いて単独内閣を組織したが在任中に死去。万延元~大正一五年(一八六〇‐一九二六

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デジタル大辞泉 「加藤高明」の意味・読み・例文・類語

かとう‐たかあき【加藤高明】

[1860~1926]政治家。愛知の生まれ。岩崎弥太郎の女婿。三菱社員から官僚を経て代議士となり、外相。憲政会総裁となり、第二次護憲運動をおこして護憲三派内閣の首相となった。日ソ国交回復に努め、また治安維持法普通選挙法を成立させた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤高明」の意味・わかりやすい解説

加藤高明
かとうたかあき
(1860―1926)

明治・大正時代の官僚出身の政党政治家。安政(あんせい)7年1月3日尾張(おわり)国(愛知県)に生まれる。本名服部総吉(はっとりふさきち)。1872年(明治5)加藤家の養子となり、1874年高明と改名した。1881年東京大学法学部卒業と同時に三菱(みつびし)本社へ入社、社長岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に認められ、1885年本社副支配人となり、翌年弥太郎の長女春治(はるじ)と結婚した。1887年官界に転じ公使館書記官、大隈重信(おおくましげのぶ)外相秘書官、大蔵省主税局長などを経て、1894年駐英公使として活躍、1900年(明治33)第四次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の外相に就任した。1901年外相辞任後政界に転じ、1902年と1903年の二度無所属で衆議院議員に当選し、1904年『東京日日新聞』の日報社社長となった。1906年第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の外相、1909年駐英特命全権大使に就任、1911年には日英通商航海条約改定と日英同盟改定に調印し、功により男爵を授けられた。1913年(大正2)第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の外相に就任、第一次護憲運動のさなかに立憲同志会の創立に参画し、桂の死後同党の総理に就任した。1914年第二次大隈重信内閣の外相となり、第一次世界大戦への参戦外交を指導、1915年には対華二十一か条要求を袁世凱(えんせいがい)政府に押し付け、中国民衆の憤激を買った。その間、元老の外交政策への介入を排除し、日英同盟路線を推進して元老らの日露協約路線と対立したため、1915年外相を辞任、貴族院議員に勅選され、1916年子爵を授けられた。同年立憲同志会を憲政会に改組して総裁となったが、元老の反対により政権の座につけず、「苦節十年」を余儀なくされた。

 三菱からの豊富な政治資金により党内の統制を図るとともに、大正デモクラシー運動の高揚に対応して普通選挙即行論に踏み切り、1924年立憲政友会革新倶楽部(くらぶ)と護憲三派の盟約を結び、第二次護憲運動を指導して総選挙に大勝し、清浦奎吾(きようらけいご)内閣を打ち倒して第一次加藤内閣(護憲三派内閣)を組織した。ここに政党政治が確立されたが、1925年護憲三派の協調が破れ、憲政会単独で第二次内閣を組織した。しかし大正15年1月28日、過労がもとで在任中に急死し、伯爵を授けられた。性格的には「傲岸(ごうがん)」「頑固一徹」「剛腹」で有名であった。

[木坂順一郎]

『伊藤正徳編『加藤高明』上下(1929・加藤伯伝記編纂委員会/復刻版・1970・原書房)』『近藤操著『加藤高明』(1959・時事通信社)』『豊田穣著『明治・大正の宰相8 加藤高明と大正デモクラシー』(1984・講談社)』『伊藤正徳編『伝記叢書 加藤高明――伝記・加藤高明』上下(1995・大空社)』『奈良岡聰智著『加藤高明と政党政治――二大政党制への道』(2006・山川出版社)』『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書15 加藤高明』(2006・ゆまに書房)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤高明」の意味・わかりやすい解説

加藤高明
かとうたかあき

[生]安政7 (1860).1.3. 尾張
[没]1926.1.28. 東京,東京
明治,大正期の外交官,政治家。首相(在任 1924~26)。東京帝国大学卒業後,三菱に入社。1883年イギリス遊学。1885年帰国し,翌 1886年岩崎弥太郎の長女春治と結婚。1887年外務省に入り,公使館書記兼外務省参事官,取調局次長,1888年大隈重信外務大臣の秘書官となったが,大隈外相遭難事件で外務省を去った。1890年大蔵省に入り参事官,主税局長などを歴任。1894年駐イギリス特命全権公使となる。この間,対ロシア強硬策を具申した。1900年対ロシア協調論の第4次伊藤博文内閣に外相として入閣するが,終始一貫,日英提携論,対ロシア強硬論を貫いた。1902年より衆議院議員に 2回当選。1904年東京日日新聞社社長。その後 1906年第1次西園寺公望内閣の外相,1908年駐イギリス特命全権大使として日英通商航海条約,日英同盟改定協約の締結に功績があった。1912年第3次桂太郎内閣の外相に就任,桂とともに立憲同志会を結成し,桂の死後同会総裁となった。1914年第2次大隈内閣の外相となり,第1次世界大戦に際しては,対華二十一ヵ条要求を行なうなど参戦外交を指導した。1916年立憲同志会を憲政会に改組,みずから総裁となる。1924年憲政会,立憲政友会革新倶楽部の 3派連合による第2次護憲運動で清浦奎吾内閣を打倒し,首相として第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)を組織するにいたった。男子普通選挙法を成立させ,貴族院改革を実現し,外交面でも対中国内政不干渉,対英米協調,日ソ国交回復などいわゆる幣原平和外交を推進するなど各種改革を断行したが,他面治安維持法を制定して社会主義運動を取り締まるなど,政策には硬軟両面があった。1925年,税制改革問題で,憲政会と政友会が対立し閣内不統一となって総辞職したが,ただちに憲政会単独でいわゆる第2次加藤内閣を組織する。しかし翌 1926年首相在任のまま急死した。

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百科事典マイペディア 「加藤高明」の意味・わかりやすい解説

加藤高明【かとうたかあき】

政治家。名古屋藩下級武士の出身。東大卒後三菱に入り,副支配人。岩崎弥太郎の娘と結婚。1894年―1899年駐英公使として日英同盟を主張。第4次伊藤,第1次西園寺,第3次桂の各内閣の外相を務め,大正政変後立憲同志会総裁。1915年には大隈重信内閣の外相として対華二十一ヵ条要求を提出。1916年憲政会総裁,1924年護憲三派内閣を組織し憲政擁護運動の要求をある程度実現した。→加藤高明内閣
→関連項目大隈重信内閣西園寺公望東京日日新聞普選運動若槻礼次郎内閣

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朝日日本歴史人物事典 「加藤高明」の解説

加藤高明

没年:大正15.1.28(1926)
生年:万延1.1.3(1860.1.25)
明治大正期の外交官,政治家。尾張(名古屋)藩佐屋の代官手代服部重文,久子の次男に生まれる。藩校明倫堂に入学するがすぐに廃校となり,さらに名古屋洋学校に入学するが,秀才であった彼はすぐに飽きたらなくなり,明治6(1873)年叔父安井譲の世話で上京,東京外国語学校(東京外大)に入学,さらに東京開成学校(途中より東大法学部)に進学,14年首席で卒業した。在学中英語を得意とし,法律に興味を持った。さらに学生のリーダーとして学校,教官と様々な交渉を行い,これによって外交家としての訓練を受けたという。またこの間,加藤家に養子に入り名前も総吉から高明とした。 卒業後,薩長閥が支配する政府を嫌って三菱に入社,すぐに海運業研究のため英国に留学する。ここで彼は政治に興味を持つようになり,陸奥宗光との出会いもあって,政治家への道を志す。帰国後,19年岩崎弥太郎の娘春治と結婚,20年陸奥の勧めで外務省入省,大隈重信外相秘書として条約改正交渉に尽力。その後,一時大蔵省に移るが再び陸奥外相の外務省に戻り,のちの政敵原敬と共に日清戦争(1894~95)時の外交に当たる。28年駐英公使,以来外相,駐英大使を数回ずつ歴任し,またチェンバレン,グレイらの英国外相と親交を持ち,日英協調を日本の外交基本方針に据えることに尽力する。他方,政治面では陸奥に伊藤博文を紹介されてその知遇を得,大隈とも接近して,両者の結合に努め,山県有朋,桂太郎らと対抗するが,伊藤没後の大正2(1913)年には一転して桂新党(のちの立憲同志会)に参画し,同年12月立憲同志会結成とともに総裁に推される。3年第2次大隈内閣でもやはり外相に就任し,対華21カ条要求(1915)問題で禍根を残した。13年護憲3派内閣の首相となって難局に対処し,在任中に死没。貴族的,傲慢とも非難されたが,日英協調外交路線の確立,および英国式立憲政治の確立に大いに貢献した。<参考文献>伊藤正徳『加藤高明』

(季武嘉也)

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改訂新版 世界大百科事典 「加藤高明」の意味・わかりやすい解説

加藤高明 (かとうたかあき)
生没年:1860-1926(万延1-昭和1)

外交官,政治家。尾張藩の下級武士の出身。1881年東大法学部卒。三菱に入り,83年イギリスに留学。以後3回10年余のイギリス滞在が彼を一貫した親英外交の主張者とした。85年帰国,翌年岩崎弥太郎の長女と結婚。87年官界に入り,外務省,大蔵省勤務をへて94年駐英公使。1900年第4次伊藤博文内閣の外相として親英・対露強硬外交を推進。02-04年代議士,04-06年東京日日新聞社長。この間伊藤と大隈重信を結びつけ反桂太郎連合をつくる政治手腕を示した。日露戦争後第1次西園寺公望内閣の外相に就任したが,鉄道国有化に反対して下野。08年第2次桂内閣が成立すると駐英大使に起用され,13年第3次桂内閣外相となる。同年の政変後,桂のあとを受け立憲同志会総裁に就任。14年第2次大隈内閣外相として第1次世界大戦への参戦,続いて対華二十一ヵ条要求を強行。翌年辞職とともに貴族院議員に勅選。16年憲政会総裁となる。政党内閣制の樹立と選挙権の拡張をとなえ,先の強引な外交策とあわせて元老に嫌われたが,持前の剛直な性格と若槻礼次郎,浜口雄幸,安達謙蔵ら幹部の結束で,在野10年の苦境にたえた。24年第2次護憲運動の結果,護憲三派内閣を組織,日ソ国交回復,普通選挙法,治安維持法の制定,貴族院改革,行財政整理などの政策を遂行した。翌年憲政会単独内閣をつくったが,在任中病死。11年男爵,16年子爵,没時伯爵。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「加藤高明」の解説

加藤高明
かとうたかあき

1860.1.3~1926.1.28

明治・大正期の外交官・政治家。尾張国生れ。東大卒。1887年(明治20)外務省入省。1900年第4次伊藤内閣,06年第1次西園寺内閣の外相となるが,鉄道国有法に反対し辞任。08年駐英大使となり,11年第3次日英同盟を締結。13年(大正2)第3次桂内閣の外相に就任し,立憲同志会入党,同年桂の死後総裁。14年第2次大隈内閣の外相となり第1次大戦参戦,対華二十一カ条の要求などを断行。16年同志会を中心に憲政会を結成し,24年の総選挙で第1党となり,護憲三派内閣を組織した。治安維持法・普通選挙法などを制定。日ソ基本条約を締結し,ソ連との国交を回復。3派の提携決裂後,新たに憲政会単独内閣を組織したが,議会途中で病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤高明」の解説

加藤高明 かとう-たかあき

1860-1926 明治-大正時代の外交官,政治家。
安政7年1月3日生まれ。岩崎弥太郎の娘婿。三菱本社勤務から官界をへて政界に転じ,明治33年第4次伊藤内閣外相となる。大正4年第2次大隈(おおくま)内閣外相として,中国に対華二十一ヵ条要求を受諾させた。5年憲政会総裁。13年護憲三派内閣を組織し,普通選挙法・治安維持法を制定。翌年単独内閣を組織。大正15年1月28日死去。67歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。東京大学卒。旧姓は服部。

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旺文社日本史事典 三訂版 「加藤高明」の解説

加藤高明
かとうたかあき

1860〜1926
明治・大正時代の政治家・外交官
尾張(愛知県)の生まれ。東大卒業後三菱に入社し,岩崎弥太郎の娘と結婚。その後外務省に転じ,イギリス駐在公使,のち伊藤・西園寺・桂・大隈の各内閣の外相を歴任。特に第一次世界大戦当時の外相で,二十一カ条要求を推進した。1913年立憲同志会を結成,'16年憲政会総裁となる。第2次護憲運動をおこして清浦奎吾内閣を打倒し,'24年護憲三派内閣,翌'25年憲政会単独内閣を組織したが,その在任中に病死。

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世界大百科事典(旧版)内の加藤高明の言及

【憲政会】より

…所属代議士は198名。総裁加藤高明を若槻礼次郎,浜口雄幸,安達謙蔵の3幹部が補佐する体制は,終始変わらなかった。つねに政党内閣主義の旗印を掲げ,藩閥官僚勢力と対立し,元老に忌まれて〈苦節十年〉の間政権から遠ざけられた。…

【大正時代】より

…一般的には大正天皇の在位期間(1912‐26)をいうが,歴史学的にいえば,藩閥官僚政治を批判する日露戦争講和反対の全国的民衆運動の発生した1905年から,第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣の政治諸改革が行われ,政党政治体制の確立した1925年までを指す。独占資本主義の確立に帰結する資本主義の急成長,中間層および無産階級(労働者,農民)の政治的進出を背景に,政治,社会,文化の各分野において大正デモクラシーと呼ばれる民主化が進行したことが時代の特徴をなす。…

【同志会】より

…大浦兼武の率いる官僚派中央俱楽部の全員33人に大石正巳,河野広中ら国民党の過半数をあわせ93人の代議士と,後藤新平,若槻礼次郎ら桂系官僚が加わったが,政友会の切崩しに失敗し,桂は議会を解散することなく2月11日総辞職した。同年10月の桂の病死後,政党内閣主義を否定する後藤新平ら一部官僚政治家が脱党,12月23日の結党大会で,総理に加藤高明,総務に大浦・大石・河野が就任した。シーメンス事件で第1次山本権兵衛内閣の倒閣に成功し,1914年4月成立の第2次大隈重信内閣の最大与党となり,9閣僚中,加藤・若槻・大浦・河野・武富時敏の5閣僚と江木翼内閣書記官長を送り込んだ。…

※「加藤高明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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