大正時代,民衆運動を背景とした政党の藩閥官僚政治打破,立憲政治確立の運動。憲政擁護運動ともいわれる。第2次大戦後にも新憲法改正に反対する運動をこの名をもって呼ぶこともあるが,日本近代史上の用語としては先のものをさす。
日露戦争後の日本の戦後経営は,軍備拡張,植民地経営を軸に展開された。そのため戦時非常特別税は戦後も継続され,そのうえ新たな増税が行われた。また戦時の外債に加えて新規の外資導入も相ついだ。財政の窮迫は国民生活を著しく圧迫した。他方,権力は機構内部において陸海軍の政治的発言力が強まり,反動化が進んだ。これに対して都市を中心に新中間層の自由主義的言論も広がり,中小ブルジョアジーをはじめとする悪税反対運動や普通選挙制など民主的諸権利を求める民衆運動が活発化した。こうしたなかで1911年政友会を基礎に成立した第2次西園寺公望内閣は,行財政整理を第1の課題に掲げた。しかし,この方針は翌12年には陸軍の2個師団増設要求と鋭く対立し,陸相上原勇作は帷幄(いあく)上奏により単独辞職した。その結果,陸軍の反対によって後任陸相をえられずに西園寺内閣は総辞職した。後継首班には,前年明治天皇の死去にともない内大臣兼侍従長として宮中入りしていた長州藩閥の寵児桂太郎が推薦され,第3次桂内閣を組織した。桂は組閣にあたって詔勅を出させ,海軍拡張を主張する斎藤実海相を詔勅によって留任させた。この政変を通じて,ジャーナリズムや各地の商業会議所,政党院外団などは軍閥の横暴を批判し,また桂首相の非立憲的行動を非難,これらはやがて藩閥専制体制そのものへの批判に発展した。12月14日には交詢社系ブルジョアジーを中心に憲政擁護会が組織され,〈憲政擁護・閥族打破〉をスローガンに第1回の憲政擁護大会が東京明治座で開かれ,3000余の民衆が参加した。運動は全国に波及し,各地で集会が開かれた。地方遊説の代議士はかえって民衆に激励され,国民党の犬養毅,政友会の尾崎行雄は〈憲政二柱の神〉と称された。第30議会休会あけの1月20日,桂は新党組織の計画を発表し,議会を停会して反対党の分裂を策した。しかし新党の立憲同志会も国民党の官僚派代議士と政友会の数名が参加したにとどまり,失敗に終わった。停会あけの議会で尾崎行雄は桂の詔勅政策を批判する演説を行うなど民党の結束は固く,2月10日には数万の民衆が議会を包囲するなかで,桂内閣は民衆の革命化を恐れてついに辞職した。この大正政変と呼ばれる政変は,民衆の力が内閣を倒した最初であった。
桂内閣のあと政友会の支持をえて海軍の巨頭で薩摩閥の山本権兵衛が内閣を組織した。しかし民衆運動の圧力のもとで山本内閣は大幅な行財政整理を行うとともに,陸海軍大臣の任用資格を予・後備役の大・中将までに拡大し,文官任用令を改正して自由任用の幅を拡大した。これらは大正政変の直接的成果であるといえる。山本内閣のもとでも中小ブルジョアジーを中心に大規模な営業税廃止の運動が憲政擁護会と結びついて展開された。そのうえ1914年1月海軍高官の収賄事件であるシーメンス事件が暴露されるとふたたび民衆運動は燃え上がり,野党も足並みをそろえた。2月には数万にのぼる国民大会が東京の両国国技館や日比谷で開かれ,10日の議会での内閣弾劾決議案が否決されると,激高した民衆は議院正門を破壊,御用新聞社を包囲するなど騒擾状態となり,結局3月には山本内閣は辞職することになった。これらの第1次護憲運動は絶対主義的政治勢力に打撃を与えた民主主義運動であった。
第1次護憲運動の後,大隈重信内閣の成立,第1次世界大戦と政界は一時期反動期を迎えるが,この間にも民衆勢力は着実に成長していった。1918年の米騒動の結果,藩閥官僚の巨頭山県有朋も政党内閣を認めざるをえなくなり原敬内閣が成立した。第1次世界大戦後には労働運動,農民運動をはじめ各種の社会運動が高揚し,19年以来普選運動が全国的に展開した。こうしたなかで,憲政会,国民党は普選を主張するに至った。しかし,民主主義勢力も十分ではなく,22年前後からサンディカリスムの影響もあって労働組合は普選に消極的となり,この問題での政党の比重が大きくなった。この年加藤友三郎内閣が成立すると憲政会,革新俱楽部(国民党の後身)を中心に憲政擁護大会が開かれ,第2次護憲運動が始まった。24年1月枢密院議長の清浦奎吾が貴族院を中心に超然内閣を組織すると,ジャーナリズムをはじめ清浦内閣反対の声が高まった。これらを背景に,憲政,革新両党と清浦内閣支持をめぐって分裂した政友会の政府反対派が加わり,護憲三派を形成,政党内閣制の樹立,普選法制定,貴族院改革の3要求を掲げて清浦内閣打倒を目ざした。清浦内閣は衆議院を解散してこれに対抗したが,総選挙の結果は護憲三派が絶対多数を占めて圧勝し,ついに清浦内閣は総辞職した。このあと第一党の憲政会総裁の加藤高明が護憲三派を基礎に内閣を組織し,これによって日本の政党内閣制の慣行が成立し,32年の五・一五事件まで続くことになった。
護憲三派内閣は行財政整理,軍縮,貴族院改革などを実行,1925年の第50議会では選挙法を改正して男子普通選挙制を実現した。しかし,同時に治安維持法を制定して革命運動に備えた。これらは第1次世界大戦後の社会的諸矛盾のなかで発展した社会運動と支配体制の動揺に対応しながら,行き詰まった政治体制を再編し,新たな支配体制をつくりだすことをねらったものにほかならなかった。結局,第2次護憲運動は日本的政党内閣制の慣行を成立させたものの,その運動は第1次護憲運動と比較して民衆運動との結びつきがほとんどみられず,既成政党の運動に終わった。それだけに民主主義的性格は後退しており,せっかく成立した政党内閣制の慣行も強固な民衆的基盤をもつことができずに,その後の政治的・経済的・社会的変動のなかで,その脆弱(ぜいじやく)性を示すことになった。
執筆者:由井 正臣
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…この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと提携して護憲運動の先頭に立ち,尾崎とともに〈憲政の神様〉と併称された。しかし第1次山本権兵衛内閣には好意をよせ,シーメンス事件にもあいまいな態度をとり,17年寺内内閣の臨時外交調査会に参加して人気を落とした。…
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