日本歴史地名大系 「苅宿村」の解説 苅宿村かりやどむら 神奈川県:川崎市中原区苅宿村[現在地名]中原区苅宿・大倉(おおくら)町東は鹿島田(かしまだ)村・市坪(いちのつぼ)村、西は北加瀬(きたかせ)村(現幸区)・木月(きづき)村に接し、市坪・木月両村と村境が錯雑する。川崎用水を堰により分流。扇田(おうぎだ)・阿弥陀免(あみだめん)・三ッ田(みつだ)・世戸田(せとだ)などの小字がある。小田原衆所領役帳には太田新六郎「弐貫五百文 稲毛鹿島田借宿中田分」とある。「風土記稿」はもと大野(おおの)村と称し、平将門が当地に一泊したことから仮宿の意味で今のように改めたと記す。慶安三年(一六五〇)旗本杉田領、安永二年(一七七三)幕府直轄領。 苅宿村かりやどむら 福島県:双葉郡浪江町苅宿村[現在地名]浪江町苅宿室原(むろはら)川中流に位置し、南対岸は当村から分村した加倉(かくら)村、東は酒田(さかた)村。仮宿・苅屋戸とも記される。「奥相志」によれば、苅屋戸能登守は標葉十三党の一人で、白幡(しらはた)大明神の神官を兼ねていた。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項では「六貫六百八十五文 苅宿能登守」「六貫五百七十七文 苅宿助右衛門」のほか「かりやとの」新蔵人が二貫一二七文をもっている。正保郷帳では田方二三五石余・畑方九〇石余で、この高には加倉村の高が含まれている。元禄郷帳では高二九二石余。寛永一六年(一六三九)の高四九四石余、その後加倉村を分村し、明暦二年(一六五六)の高三七二石余となる(奥相志)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報