双葉郡(読み)フタバグン

デジタル大辞泉 「双葉郡」の意味・読み・例文・類語

ふたば‐ぐん【双葉郡】

双葉

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「双葉郡」の解説

双葉郡
ふたばぐん

面積:八六五・一二平方キロ
川内かわうち村・広野ひろの町・楢葉ならは町・富岡とみおか町・大熊おおくま町・双葉ふたば町・浪江なみえ町・葛尾かつらお

浜通りのほぼ中央に位置し、明治二九年(一八九六)四月一日、楢葉郡・標葉しねは郡が合併して成立。東は太平洋、西は田村郡滝根たきね町・常葉ときわ町・都路みやこじ村・船引ふねひき町、安達郡岩代いわしろ町、伊達郡川俣かわまた町、南はいわき市、北は原町市、相馬郡小高おだか町・飯舘いいたて村と接する。現郡域は南から北へ広野・楢葉・富岡・大熊・双葉・浪江の六町が縦に連なり、南に川内村、北に葛尾村阿武隈高地にあり、突き出して田村郡に食込んでいる。阿武隈高地に源を発する大小一〇の河川が東流して太平洋に注ぐ。これらの川の流域の沖積地、あるいは双葉断層以東に構成されるなだらかな丘陵地に六町が集落をなしているが、各町ともその半分以上は山地が占めている。また西の山岳地帯に位置する川内村は、かつては山楢葉やまならはとよばれたところで、標高一〇〇〇メートル前後の高山に囲まれ、集落も標高四〇〇―六〇〇メートルの高原地帯に存在する。葛尾村も山中さんちゆう郷とよばれ、標高四〇〇―五〇〇メートルの高原地帯に集落を形成し、標高九〇〇メートル前後の峰が続く。

旧楢葉郡の成立を明確に示す史料はない。承平年中(九三一―九三八)の「和名抄」に、磐城郡一二郷の一つとして「楢葉」が載るが、いつ楢葉郷が楢葉郡になったかは不明である。建武四年(一三三七)五月日の相馬胤時軍忠状(相馬文書)に「楢葉郡八里原合戦」とあり、同年一〇月一五日の伊賀盛光代贄田盛行軍忠状(飯野八幡宮文書)にも「楢葉郡朝賀城」とある。標葉郡はもと染羽しめは国で、「国造本紀」に染羽国造がみえる。「続日本紀」養老二年(七一八)五月二日条に初めて標葉郡とあり、くま川南部の丘陵地から北は請戸うけど川北の丘陵部にかけての地域と推定される。

〔原始〕

木戸きど川北岸の海岸台地上の楢葉町天神原てんじんばら遺跡、波倉なみくら川北岸の河岸段丘上の同町北向きたむかい遺跡のほか、富岡川南岸の低丘陵上にある富岡町本町もとまち遺跡などから旧石器時代の遺物とみられる石器などが発見されている。広野町では浅見あさみ川下流域の上北迫かみきたば・下北迫に縄文時代中期以降の遺跡が集中する。横穴群も同地区に二ヵ所存在するが、いずれも未発掘である。楢葉町の縄文時代の遺跡は町域に広く分布し、弥生時代の集落跡は江戸期の村落に匹敵する規模をもつ。弥生時代から古墳時代にかけての集落は低湿地に臨む台地や山裾の低台地にあり、住居跡は波鏡院はきよういん遺跡など一四ヵ所が確認されている。弥生時代の天神原遺跡からは土器棺墓三三例・土壙墓四八例が検出されており、東日本最大の弥生時代墓跡であることが判明した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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