加倉村(読み)かくらむら

日本歴史地名大系 「加倉村」の解説

加倉村
かくらむら

[現在地名]岩槻市加倉・加倉一―五丁目・原町はらまち並木なみき一丁目

岩槻城下惣構の南端、加倉口の南に位置し、日光御成道が通る。南は谷下やした村、西から北にかけては城下付属の耕作地である西原地にしぱらち。村域は岩槻台地沖積平野からなり、天文年間(一五三二―五五)に斎藤勘解由之盛が開発したという(斎藤家墓碑銘)。永禄一一年(一五六八)六月二三日北条氏は「加倉十分一」を平林寺安首座泰翁宗安に安堵している(「北条家印判状」平林寺文書)

江戸時代初期にはのち独立村となる谷下村を含んでおり、寛永六年(一六二九)二月の岩付領加倉村谷下御検地(岡田家文書)がある。同二〇年七月には岩槻城主阿部重次は「加倉村綾瀬河辺新田」の内で二〇石分(二町四反余)を当地浄国じようこく寺に寄進している(「阿部重次寄進状」浄国寺文書)。江戸時代初期に岩槻藩領となり幕末に至る。田園簿によると、谷下分を含め田方五二一石余・畑方二八九石余。


加倉村
かくらむら

[現在地名]浪江町加倉

室原むろはら川右岸にあり、北の対岸は苅宿かりやど村、東は川添かわぞえ村。嘉倉とも記される。苅宿村の内から分村し、明暦二年(一六五六)の高一四〇石余。元禄年間(一六八八―一七〇四)の高二三七石余(奥相志)。この間の高の増加は、室原川中流から取水する加倉江の完成によるものであろう。元禄郷帳では高九九石余。天明三年(一七八三)の家数一九、嘉永元年(一八四八)の家数一二(検地石高収納戸口等調)


加倉村
かくらむら

[現在地名]鎮西町大字加倉

東松浦半島の上場うわば台地にある村で、菖蒲しようぶ村へと流れる柳田やなぎた川以外に川らしいものはなく、水利に乏しく旱魃常襲地。中世から交通の要所となっている。

先土器時代から縄文時代にかけての石器類の出土がみられる。

有浦家文書の元徳元年(一三二九)一二月二三日の沙弥の和与状に「建治三年□□状者為狩倉波伊田以下佐志村内之条分明也」とある。これは佐志塩津留四郎入道源光と佐志次郎勤の所領争いに対する裁断状で、「狩倉」は加倉に比定できる。


加倉村
かくらむら

[現在地名]真岡市加倉・松山町まつやまちよう

鬼怒川左岸の段丘上、真岡町と石橋いしばし宿とを結ぶ道の南に位置し、西は粕田かすだ村。慶安郷帳によると宇都宮藩領で、田高一三〇石余・畑高二九石余。承応二年(一六五三)検地、寛文一一年(一六七一)新田検地高入があり、合せて高一八二石余、反別二一町八反余(「中村郷土誌」中村八幡宮蔵)。貞享二年(一六八五)幕府領、元禄五年(一六九二)上田藩領、同一一年幕府・旗本今福の二給となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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