日本でつくられる手漉(す)きの紙をいう。洋紙に対することばで、「わがみ」ともいう。元来、紙とは植物繊維を水の中に分散させたのちに水を濾(こ)し、薄く平らに絡み合わせたものをいい、筆記や印刷、また物を包んだりするのに用いられる。その原料や製造方法は、時代や土地によって変化がみられるが、製紙そのものの原理は変わらない。木材パルプを原料として機械によって量産する洋紙に対し、和紙は植物の靭皮(じんぴ)繊維をとってすべて手作りで漉くのが特徴となっている。手漉きによる製紙は諸外国でも行われているが、その多くはリンターや麻のぼろ裂(きれ)などを主原料としており、いわゆる溜(た)め漉き法によって抄造されている。これに対し和紙は、コウゾ(楮)、ミツマタ(三椏)、ガンピ(雁皮)などの靭皮繊維を原料としており、これらの長い繊維を十分にしかも均一に絡み合わせるために、「ネリ」と称する植物性粘液を混入した紙料液を調製して漉き上げる、いわゆる流し漉き法によって抄造される。この技法は手先の器用な日本人が過去に独特に考案し、普及させたもので、熟練した手さばきを要する。このため、少量の材料でごく薄い紙を多数漉くことができ、地合いが均一で美しく、しかも非常にじょうぶである。しかし多孔質のため、墨書きには適するが、一般にはインクによるペン書き、印刷には適さない。これは、洋紙が短小な繊維で目の詰まった構造のうえに、にじみを防ぐため、サイジング(ロジンや合成樹脂などの耐水性物質で、にじみを防止する加工)の処理を施してあるのと対比されるところでもある。ただし雁皮紙(がんぴし)だけは緻密(ちみつ)堅硬なため、ペン書きも可能である。
和紙は書写用のほかにも日本の日常生活に多くの用途をもつ。多種多様な加工により、実用性と美的効果をおのずと備えた必需品として近年まで全国各地で生産され、日本文化に特異な貢献をしてきた。和紙の優れた性質は、古くから世界中で注目されているが、洋紙のために一時経済的に生産が困難になった。しかし最近ではふたたび工芸品や造形美術の素材として見直され、伝統産業として保護育成されている。
[町田誠之]
2009年(平成21)に島根県浜田市の「石州半紙(せきしゅうばんし)」(石見半紙)がユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に単独で登録され、2014年には、石州半紙に岐阜県美濃(みの)市の「本美濃紙」と、埼玉県小川町、東秩父(ひがしちちぶ)村の「細川紙(ほそかわし)」を加えた「和紙―日本の手漉和紙技術」があらためて無形文化遺産に登録された。
[編集部]
日本で初めて製紙の記事がみられるのは『日本書紀』巻22の推古(すいこ)天皇18年(610)のところで、「春三月に高麗(こま)から曇徴(どんちょう)、法定(ほうてい)という2人の僧が来日したが、曇徴は中国古典に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼(うす)を動かした」とある。この記事では曇徴が最初に紙を漉いたとは書いてなく、いわば正式の技術導入とも解される。事実、紙そのものは、外交文書や私用の土産(みやげ)品としてすでに古墳時代に中国から朝鮮半島を経て日本に伝えられており、したがって渡来人などの手によって、日本のどこかですでに製紙が行われていたとみられる。当時の紙は貴重品であり、中国からもたらされる紙は唐紙(とうし)とよばれて珍しい舶来品であった。日本で紙の需要が高まって国産が奨励されるようになったのは、国家体制が整って律令(りつりょう)制が行われるようになってからのことである。徴税のために7世紀の中ごろから戸籍がつくられ、また仏教が人心の安定のために布教され、文字による情報伝達の媒体として紙の需要が激増し、製紙は量的にも質的にも急速な進展をみた。
奈良時代には写経に要する莫大(ばくだい)な紙が図書寮造紙所(ずしょりょうぞうしじょ)で漉かれ、文献によれば710~772年(和銅3~宝亀3)までの62年間だけでも『一切経(いっさいきょう)』が21部写され、一部を3500巻、1巻の用紙を150枚として、総計約1102万5000枚の紙が漉かれたことになる。舶来の唐紙は麻紙(まし)がほとんどであったが、国産の場合は楮紙(こうぞがみ)や斐紙(ひし)のほかに多くの植物繊維を補助的に混合した紙も使用された。これらの原料を有効に利用してじょうぶな紙を多量に生産するための合理的な方法として、奈良時代後期に、世界の製紙史上画期的な技法である「流し漉き」が生まれ、和紙を特色づけることになった。これは、各種の原料繊維のなかでもとくに日本特産の雁皮(がんぴ)類(ジンチョウゲ科)の繊維の粘質性が、斐紙の抄造中の特異な性格としてみいだされ、研究された結果であった。紙は都を離れた各地方の国府でも漉かれ、戸籍や計帳(けいちょう)、宗教用などにあてられ、また原料とともに中央政府へも入貢された。奈良時代の紙に関する情報は『正倉院文書』に詳細にみられ、紙名は、原料、用途、染色などの加工法により230以上も数えられ、実物がそのまま現存している。また770年(宝亀1)に完成した現存する世界最古の印刷物といわれる「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」も、当時の製紙能力を示す記念物である。
都が平安京に移されてまもなく、嵯峨(さが)天皇の大同(だいどう)年間(806~810)に、図書寮別所として紙屋(かみや)川のほとりに宮廷用紙を漉いて研究を行う紙屋院(かみやいん)が拡充移設され、全国の製紙に向かって指導的役割を果たした。紙屋院の組織や作業は『延喜式(えんぎしき)』の「図書寮式」に示されており、当時の製紙のようすがうかがい知られる。その恵まれた環境で漉かれた優美な紙は、「紙屋紙(かんやがみ)」の名で貴族間に愛好され、また舶来の唐紙よりも上質とされて唐へも逆輸出された。女流王朝文学作品、たとえば『源氏物語』や『枕草子(まくらのそうし)』のなかには、紙屋紙をたたえることばがしばしばみられる。しかし平安朝も末期になると、摂関政治の威信の低下と地方有力者の台頭を反映するかのように、紙屋紙や紙屋院の名声も落ち、かわって地方産のみごとな紙が都へ流入してくるようになる。その先駆けは東北地方からの「陸奥紙(みちのくがみ)」で、紫式部もその優美さを紙屋紙と比肩している。その紙質は大宮人(おおみやびと)の好みにあい、男性はこれを唐風に檀紙(だんし)と称し、女性は真弓紙(まゆみのかみ)ともいって、その使いざまが当時の文学作品や日記類に記されている。紙漉きは、地方の荘園(しょうえん)からの収入で豊かになった各地の産業のなかで一段と盛んになり、地方産紙は中央の紙屋紙を圧倒するほどの勢いをみせた。そして白河(しらかわ)上皇の院政が始まるころから、紙屋紙は古紙を再生した漉き返し、すなわち「宿紙(しゅくし)」を意味するまでになって衰滅した。
鎌倉時代から室町時代には、公家(くげ)にかわって武士が権力をもつ世の中となり、檀紙系統の楮紙が、陸奥(むつ)国以外に讃岐(さぬき)国(香川)、越前(えちぜん)国(福井)、備中(びっちゅう)国(岡山)などでも漉かれ、公家が懐中紙として使用したのと同じように武士は鎧(よろい)の引合(ひきあわせ)(胴の右脇(わき)で前と後ろとを引き締めて、あわせるところ)に入れたため、そこから引合の名でよばれるようにもなった。また播磨(はりま)国(兵庫)の杉原紙(すぎはらがみ)や越前国の奉書などもこのころ出始めた。一方、斐紙は、鳥の子紙の名でよばれる雁皮紙と、このような色(淡黄色)ではない三椏紙(みつまたがみ)の2系統に分かれ、越前五箇(ごか)村や駿河(するが)国(静岡)伊豆方面で発達して全国的に普及した。雁皮紙は肌が滑らかでペン書きもできるため、外国の宣教師にも人気があったらしく、これに属する多くの紙名が、後の1603年(慶長8)に長崎で出版された『日葡(にっぽ)辞書』に集録されている。
室町時代から建築様式に書院造が流行するが、それにつれて、建具として襖障子(ふすましょうじ)のほかに明(あかり)障子に用いる紙の需要が増し、また雨傘用の紙も美濃(みの)国(岐阜)、土佐国(高知)をはじめ全国津々浦々で増産された。また大和(やまと)国(奈良)の奈良紙、吉野紙などがちり紙として広く使用されるようになり、江戸時代には庶民の日常生活の必需品として紙が多彩な用途をもつようになった。
江戸時代には経済力をつけた町人の手によって紙の取引が盛んとなり、諸藩は競って製紙を財源の一つとして奨励した。活版印刷の技術が輸入されると「奈良絵本」や「嵯峨(さが)本」の流行をきたし、江戸文学の興隆は書物としての紙の需要を増加し、また庶民の目を楽しませる浮世絵版画は紙の加工技術を発達させた。そして藩のなかには、用途の広い半紙、障子紙、ちり紙などを専売制とするところも現れ、江戸とともに大坂市場では紙の商取引が盛んに行われた。1736年(元文1)の記録によれば、大坂市場では紙は米、木材に次ぐ第3位の取扱高を示している。各藩の大名のほか、大寺院や大社も大坂に倉屋敷を設けて商品を納入したが、この公的に扱われる紙は御蔵紙(おくらがみ)と称して民間の納屋物(なやもの)あるいは脇物(わきもの)と区別され、品質が管理された。しかし全体の取扱量は、蔵物が年平均13万丸(がん)(半紙の場合1丸は1万2000枚)であるのに対し、脇物は17万丸以上にも達したという。まさに和紙の全盛時代であった。
明治時代以後洋紙の流入によって衰退の一途をたどった和紙は、生活様式の変化に伴って実用性を失い、現在では伝統工芸品としてのみ漉かれているが、和紙のまれにみる耐久性、強靭(きょうじん)性、優美性については世界中の識者も賛嘆を惜しまないところであり、わが国でも最近は日本文化とかかわりの深い和紙を保全しようとする機運が高まっている。
[町田誠之]
和紙の主要原料植物のうち、栽培が困難なガンピは夏に野生種を採取し、皮を生(なま)はぎにする。コウゾやミツマタは、おもに栽培種を秋に刈って長さをそろえ、束にして蓄える。そして鉄の平釜(ひらがま)の上で桶(おけ)をかぶせて蒸し、適当に蒸し上がった束をむしろの上に取り出し、水をかけ、手早く皮をはぎ取る。これらの粗皮(あらがわ)は黒皮(くろかわ)といい、乾燥して貯蔵する。黒皮から黒い表皮を取り去るには、これをさらに水に漬けて軟らかくしてから小刀でこれを削り去るか、あるいは楮(こうぞ)踏みといって、黒皮を小川の浅瀬に浸して足で踏みつけ表皮を洗い流す。こうして得た白皮をさらに乾燥させた靭皮(じんぴ)繊維の束が和紙の原料となる。
紙漉(す)きには、必要量の白皮を取り出して半日ほど水に浸し、釜(かま)の中へ入れ、アルカリ液で蒸解(煮熟(しゃじゅく)ともいう)する。以前はアルカリ液として木や藁(わら)の灰汁(あく)を用いたが、現在では石灰、ソーダ灰、カ性ソーダなども使用されるようになった。これによって繊維中の可溶性不純物が溶出されるが、強力な化学薬品はセルロース(繊維素)自身をも侵しやすいため十分な注意が必要である。通常は約1時間で白皮が指でつまみ切れる程度に軟らかくなるので、加熱を止めて放冷し、流水中でいわゆる「川晒(さら)し」をして水洗いする。この際、自然に漂白も行われるが、地方によっては「雪晒し」といって雪の中に長く埋めたり、「天日(てんぴ)晒し」といって芝生などの上に放置したり、あるいはさらし粉などの漂白剤の作用を借りることも行われる。そのうえでさらに、少量ずつの繊維を流水や桶水に放ち、なお残存する粗皮や堅い筋(すじ)、塵(ちり)などを丹念に手で取り除くが、これは「塵取り」と称して根気のいる仕事である。次に、すっかり精製された繊維を「楮しぼり」と称してメロンくらいの大きな塊に丸める。この塊を木または石の平たい台に置き、硬い木の棒または槌(つち)でたたく。これは「紙打ち」「楮打ち」または「手打ち」といって、靭皮繊維が細かく引き裂かれ(フィブリル化)て表面積が増し、水化して柔軟性と可塑性に富むようになる。この調子よく打つ音は紙砧(かみきぬた)とよばれ、遠くまで響く。ときにはビーター(叩解(こうかい)機)を使って叩解したり臼(うす)で砕くことも行われるが、機械力を用いた場合は繊維が切断されることも多く、和紙本来の美しさとじょうぶさは旧来の手打ちでなければ生まれてこない。このような処理をすべて終えた繊維(紙料)は槽(そう)(漉き舟)に入れて水を加え、よくかきまぜて網や簀(す)ですくい上げると紙ができあがる。日本以外での漉き方はいわゆる溜(た)め漉きで、紙料繊維を網の上で緩く揺り動かして水を濾(こ)し、繊維の絡み合った紙層を「紙床(しと)」に移し、網を静かに外して湿紙の上に布をかぶせる。紙床とは、このような湿紙と布との積み重ねたものをいう。
ところが和紙独特の流し漉きには、ネリと称する植物性粘液を必要とする。これには古来トロロアオイ(黄蜀葵)の根またはノリウツギ(糊空木)の内皮をたたきつぶして水で抽出した粘液がもっとも多く利用される。またネリの添加量は普通、熟練した手の感触によるが、紙料液とよくかき混ぜて白い乳状に仕立てる。抄造には、桁(けた)をはめた簀で液をくみ上げてすばやく簀の表面全体に行き渡らせる。この最初のくみ上げは、紙の表面を形成するたいせつな操作で、各地方により「初水(うぶみず)」「化粧水」「数子(かずし)」などといい、比較的粗い繊維層ができて水が速く濾される。そこでもう一度、今度はやや深く液をくみ上げて簀を前後に揺り動かし、液が流動しているうちに繊維の方向性をもたせながら、緊密な絡み合いを行わせる。この操作を「調子」といい、求める紙の厚さに応じて繰り返し行うが、簀の目がしだいに詰まってくるため水漏れが遅くなり、紙層組織の平均化が行える。また繊維の不規則なもつれによる塊や、不用意に混入したごみなどが目だって浮遊してくるので、これらは最後に簀の上に残っている余分の液といっしょに桁の前方から勢いよく槽に投げ戻す。これは「捨て水」といって、流し漉き法でなければできない特徴的な技の一つである。紙層をのせたままの簀を桁から外し、紙床の上にうつぶせて静かに簀だけをはがし、簀は元の桁にはめて、前と同様な抄造操作を繰り返す。紙床の上の湿紙は、そのまま何枚もその上に重ねていく。これも流し漉き法の特徴の一つで、溜め漉き法のように湿紙1枚ごとに布を隔てて積んでいく必要はない。紙床はそのまま一晩放置し、上から重石(おもし)を置いたり、天秤(てんびん)式などの方法で水切りをし、適当なころに1枚ずつはがして干し板に貼(は)り、日光に当てて自然乾燥を行う。晴天ならば1時間ほどで乾くので、板からはがして選別し、枚数をそろえて必要ならば裁断し、包装して製品とする。
[町田誠之]
和紙の流し漉きを可能にしているのはネリ(地方によっては「ネベシ」「ノリ」「タモ」「サナ」などの方言がある)である。これにもっともよく用いられるトロロアオイの粘質物は、化学的にはラムノースとガラクツロン酸を成分とする長い鎖状の複合多糖類で、ノリウツギの粘質物もほぼ同様の多糖類である。これらの高分子は、ガンピ(雁皮)などの靭皮(じんぴ)繊維に多く含まれるヘミセルロースと類似した分子構造で、いずれもポリウロニドとよばれる水溶性高分子である。ポリウロニドは水に溶けるとコロイド溶液となり、長い分子は水中に広がって網の目のように絡み合い、粘滑性と曳糸(えいし)性とを示す。紙料繊維のセルロースはすでに叩解(こうかい)によってフィブリル化され、水によって膨潤し、その表面を水和したセルロース分子やヘミセルロース分子がうぶ毛のように覆っている。このような繊維がネリ液の中に分散されると、このうぶ毛に長いポリウロニド分子がまつわりついて、繊維全体はさらに大きな水和層に包まれ、長い繊維も相互の直接の接触による凝集が妨げられて、均一な分散が促進される。簀(す)にくみ上げられて揺り動かされると、液の粘性や曳糸性のために繊維層のすきまが狭められ、水漏れが遅くなり、長い繊維も均一によく絡み合って、少ない紙料でもむだなく、また薄いながらもきわめてじょうぶな紙層が形成される。そして万一、繊維に不規則な塊ができたり、不用意な夾雑物(きょうざつぶつ)があっても、これらは紙層の表面を流れて1か所へ集められ、捨水(すてみず)の操作によって除去される。したがって、抄造の操作は原始的な手作業でありながら、できあがる紙は塵(ちり)一つなく純白である。またネリの濃度を加減することによって紙の厚さや緊締度も調節できるが、それは、熟練した勘に頼って行われる。ネリの粘度は一晩たつと急速に減退するため、紙床から湿紙をはがすときも粘着することはなく、また乾燥後は紙の光沢をよくする。このようなネリの効用を、器用な手さばきで十分に発揮させるのが流し漉きの神髄であるといえる。
このほか、昔からネリをとるには、ビナンカズラ(サネカズラ)、ニレ、タブノキ(イヌグス)、アオギリ、スミレ、マンジュシャゲ(ヒガンバナ)、ナシカズラ、ギンバイソウ、ヤマコウバシなどの植物が補助的に用いられる。最近ではオクラや脱アセチル化カラヤゴムなども注目され、また合成高分子としてはポリアクリルアミド、ポリエチレンオキシドなどが研究・開発されている。
[町田誠之]
古代から近世まで和紙の種類と名前はきわめて多数に上り、また時代によって変化もみられる。製紙が始められたころの初期の紙名には、原料により穀紙(かじし)、麻紙(まし)、斐紙(ひし)などをはじめ、竹幕紙(ちくまくし)、楡紙(にれがみ)、布紙(ぬのがみ)、本古紙(ほごがみ)、葉藁紙(はわらがみ)、杜中紙(とちゅうし)などがあり、すでに奈良時代の文献にみえるが、これらの紙はかならずしもその原料繊維単独でできているのではなく、コウゾなどの普通の原料に補助的に添加抄造された場合も考えられる。平安時代になると地方諸国での製紙が興隆するにつれて国名を冠した紙名が流布し始め、たとえばその先駆けとみられる陸奥紙(みちのくがみ)は、植物への連想から檀紙(だんし)とか直弓紙とかよばれて複雑さを加えている。そして鎌倉時代以降には産地名による紙名が増加し、美濃(みの)紙、吉野紙、鎌倉紙、高野(こうや)紙など著名な土地から始まって、しだいに杉原紙、森下紙、西島紙、溝口(みぞぐち)紙などと、現在の地図ではみつけるのにほねのおれるほど小地域にまで広がる。これは、製紙の普及および特色化、またそれらが流通しやすい経済機構がすでに発達したことを示す。そして各種の紙が得やすくなると、その用途も広く多岐にわたり、紙の形状、性質、用途などに基づいた紙名が一般化した。江戸時代にはこれらの由来による名称が入り混じり、方言も加わって、多種多様な紙名が呼称された。形状による紙名の例としては、延紙(のべがみ)、半紙(はんし)、半切(はんつ)、巻紙(まきがみ)、大杉、小杉などがあり、用途によるものでは奉書、障子紙、傘紙、鼻紙などがある。さらに染色や加工が行われた場合には、それを表す名前もつけられた。そしてたとえば、普通典具帖(てんぐじょう)とよばれる紙は、天具帖、天郡上、天久常、天狗状などとも書かれ、その産地も最初は美濃国であったのが、のちに土佐国に移って今日に及んでおり、その命名の由来はいまも不明とされている。このように多種多様の紙名が残っていることは、現在からは想像もつかないほど多くの和紙が日本の至る所で生産され、また消費されていたことを示すものであり、日本人の生活に密着していた和紙の姿を表している。
[町田誠之]
古くから和紙の書写性、印刷性、耐久性を増し、美的要素を与えるなどの目的から各種の加工が行われてきたが、その多彩なことは世界に類をみないものである。これは和紙がふんだんに供給されたことにもよるが、和紙がどのような紙質の紙でも漉くことができ、そのうえどのような加工処理にも耐えられるという性能を内在していたことによる。このことも和紙の特色の一つである。紙の色染めはすでに奈良時代(8世紀)にはみごとな完成をみていた。元来紙の染色は防虫の目的から出たらしく、黄蘗(きはだ)、藍(あい)、紅(くれない)、紫草(むらさき)、蘇芳(すおう)、木芙蓉(もくふよう)、蓮(はす)、楸(ひさぎ)、椽(つるばみ)などの植物を原料とした天然染料が用いられ、また媒染剤としては灰汁(あく)やみょうばんも使用された。濃淡各種の色調を出した「染紙(そめがみ)」の名称は『正倉院文書』に約40種もみいだされ、染色方法には、漉(す)き染め、浸(ひた)し染め、引き染め、吹き染めなどの方法が行われた。正倉院には有名な「色麻紙(いろまし)」19巻をはじめ多くの実物が現存しているが、これらの染色技術は平安時代へも引き継がれ、写経のほかに詩歌を染紙に書くことも流行して華美なものへと発展した。
染紙(そめがみ)を色紙(しきし)ともよぶことはすでに奈良時代にもあったが、平安時代から詩歌を書くために一定の大きさにして用いたことから、着色の有無にかかわらず色紙の名称が用いられた。王朝文学作品にはしばしば「白き色紙」のことばもみられる。色紙はさらに加工が施されておのずと経紙と区別され、料紙の名で書道用紙へと発達した。流し漉きにより薄様(うすよう)を漉く技術と、漉き染めのそれとが組み合わされ各種の「漉き模様紙」が完成されると、打曇(うちぐもり)、飛雲(とびくも)、羅文紙(らもんし)などが生まれ、墨流しや、金銀の砂子(すなご)、切箔(きりはく)、野毛(のげ)などの散布による装飾も精彩を極めた。さらにこれらの加工紙をわざと切ったり、あるいは破ったりして断片を継ぎ合わせて変化をもたせた「継ぎ紙」がつくられたが、これには切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの種類があり、1112年(天永3)に完成されたといわれる西本願寺蔵『三十六人家集』は、その代表的作品として有名である。経紙でも、紺紙や紫紙に金泥や銀泥で写経することが盛んになり、これらのいわゆる「荘厳経(しょうごんきょう)」は、静岡県の久能(くのう)寺蔵『久能寺経』や広島県の厳島(いつくしま)神社蔵『平家納経』などが著名な例として現存する。染料のかわりに香料をしみ込ませた「香染め紙」も、平安時代から上流婦人の畳紙(たとうがみ)(懐紙(ふところがみ))や扇紙として愛好された。
江戸時代になると、和紙が墨書きのほかに木版印刷や浮世絵版画、あるいは唐紙(からかみ)用などに使用されるようになり、どうさ引き加工(膠(にかわ)とミョウバンの溶液を塗る)が行われて具引(ぐび)き紙(胡粉(ごふん)を塗った紙)も流行するようになった。するとこれに伴って「もみ紙」も発達し、唐紙師(からかみし)という職業人が専門に取り扱うようになって、これらの技術は現在まで続いている。じょうぶな和紙はもんで柔軟性をもたせれば衣料にも利用することができ、紙衣(かみこ)(のちには紙子(かみこ)といった)は平安中期から用いられ、室町時代には柿渋(かきしぶ)で耐久性と耐水性とを加えて広く防寒あるいは防水のために一般化して、戦国武将や江戸町人に人気を得た。江戸文学の作品には紙子が流行着として使用された記事がよく現れる。渋は漆よりも安価、簡便で、一閑張(いっかんばり)の製品もつくることができ、箔打紙(はくうちがみ)の製造や捺染(なっせん)の型紙の製造に欠かせないものである。和紙の防水(あるいは撥水(はっすい))には桐油(とうゆ)あるいは荏胡麻油(えごまゆ)などを塗った桐油紙が、合羽(かっぱ)、包み紙、雨傘の材料に広く用いられた。
和紙を継いだり張ったりする接着剤には、古くからダイズの汁(成分はカゼイン)、米(成分はデンプン)、コムギの生麩(しょうふ)(成分はグルテン)などが使用された。またこんにゃく糊(のり)(成分はグルコマンナン)は接着剤のほかに、表面加工剤としても広く応用された。和紙、ことにもみ紙の表面に薄くこんにゃく糊を塗ると、繊維のけば立ちを防ぎ、さらに塗ったあとでアルカリ液で処理すると糊が凝固して不溶性となり、紙の強度や耐水性が増加する。この作用は柿渋とともに紙子の補強に広く用いられたが、第二次世界大戦の末期に風船爆弾の材料にされたことで有名になった。現在ではこの種の加工紙は、味わいのある民芸紙として表装や本の装丁などに用いられ、とくに強製紙の名でよばれることもある。
このように和紙は各種の加工によってどのような用途にも向けられ、日本人の生活を支えてきた。今日ではほかの多くの工業材料によって代替されたが、手作りの工芸材料としてなお多くの分野に特殊な用途を有している。
[町田誠之]
『寿岳文章著『日本の紙』(1967・吉川弘文館)』▽『町田誠之著『和紙の風土』(1981・駸々堂)』▽『町田誠之著『和紙と日本人の二千年――繊細な感性と卓越した技術力の証明』(1983・PHP研究所)』
〈わがみ〉ともいう。洋紙に対照する名称で,日本で漉(す)かれた手漉きの紙をいうが,現状では手漉紙を模倣した機械漉きの和紙を含めて用いられる場合もある。
現在,植物の繊維をおもな原料として,手づくりで紙を作る技術は,日本以外のアジア(中国,朝鮮,台湾,インド,ネパール,ブータン,タイなど)やヨーロッパ(イタリア,フランス,イギリスなど),あるいは近年,新しい手づくり運動の一環として紙漉きが盛んなアメリカなど,なお数多くの国々で行われている。それらの手漉きの紙のなかで,和紙は最も薄く,丈夫で,美しい紙である。和紙の美しさは,原料の植物の繊維のもつ自然な色彩や光沢などが十分に発揮されているからである。また薄くても丈夫なのは,コウゾ(楮)などによる長い繊維どうしが緊密に絡み合っているため,折ったり,引っ張ったりしても,絡み合いが容易に解けず,繊維が抜けないからである。さらに和紙の重要な特色は,正倉院に残る紙が示すように,1000年を超えても朽ちず,今なお使用可能なことから知られるように,長い保存力をもっていることである。これは,傷められていない植物の繊維以外には,なんら人工的な夾雑物が混じらないからである。強力な薬品で傷められた木材パルプを原料とし,印刷効果等のため多量の人工物が加わった洋紙の保存力が弱いのに比較して,和紙のきわだった特色といえる。
以上のような和紙の特色は,独自の製法から生まれる。その製法の特色はいくつもあるが,最も重要なものは次の2点である。第1に,コウゾ,ガンピ(雁皮),ミツマタ(三椏)などの植物の靱皮(じんぴ)繊維を用いることである。これらの植物の樹皮は比較的容易に木芯部からはがれるが(コウゾやミツマタは蒸してはぎ,ガンピは生はぎにする),その樹皮の表皮をそぎ除いた部分に多量に靱皮繊維が含まれている。コウゾの繊維が最も長く1~2cmほどもあり,絡み合いやすい。ガンピの繊維は5mm内外と短いが,半透明で光沢があり,ねばり強い。ミツマタの繊維もガンピと同様に短いが,繊細な美しさをもつ。これらの靱皮繊維がアルカリ性に強いのを利用して,木灰やソーダ灰で煮て,不純物を溶かし去り,繊維が束の状態になっているのを木棒で手打ちするなどの方法で1本ずつばらばらにほぐす。このように繊維をできるかぎり傷めずに取り出し,純粋に繊維のみで紙が作られるので,繊維の特色がそのまま紙にあらわれる。楮紙は最も強靱であり,雁皮紙は光沢のある,平滑なきめ細やかさをもち,三椏紙は紙の腰が柔軟で,優美な紙である。製法の第2の特色は,〈ねり〉を使用した〈流し漉き〉にある。ヨーロッパ等に伝わる〈溜め漉き〉では,原料に木綿の古布などをほぐしたものを使い,水に入れた原料を金網で静かにすくい取る。原料がすぐ沈殿するので,一度原料を水に入れると数多く漉くことができず,また薄い紙を均等にそろえて漉くことも難しい。和紙における〈ねり〉とはトロロアオイの根やノリウツギの樹皮を打ちくだくと出てくる粘液で,これを水に入れると水の動きが変化する。まず波立ちが小さくなり,原料の繊維が水中で均等に分散して浮遊し,沈殿しにくくなる。和紙では竹ひごやカヤ(萱)ひごを編んだ簀(す)を使って漉くが,その竹簀のすきまから水が漏れにくくなり,簀の上で繊維を含んだ水を縦(天地)方向や横(左右)方向に勢いよく揺り動かして,繊維どうしをよく絡み合わせ,強靱な紙を作ることが可能になる。さらに漉き上げた湿紙を直接重ね合わせ,おもしをのせて水分を取り除いても,乾燥の際,1枚ずつ容易にはがすことができるのも〈ねり〉を使う結果である。溜め漉きでは,漉き上げた湿紙は間に布を敷いて重ね合わせなければならない。以上のように〈ねり〉を使うことにより,薄くて丈夫な紙を,作業能率を上げて数多く漉くことができるようになった。〈ねり〉を使う方法は日本以外にもみられるが,〈ねり〉の効用を最高度に生かし,最も洗練された流し漉きを完成したのは,日本の紙漉職人である。
従来,中国の蔡倫(さいりん)が105年に紙を発明したとされてきた(《後漢書》)。しかし,近年,中国でそれをさかのぼる年代の紙がつぎつぎと発掘されており,すでに前漢時代(前206-後8)には麻を原料とした紙(麻紙)があったことが明らかになっている。紙の製法を日本に伝えたのは,610年(推古18)に渡来した高句麗の僧曇徴といわれてきた(《日本書紀》)。しかし,そのころには戸籍用紙など膨大な公用紙を必要とする国家機構の整備がすでに始まっているので,曇徴以前に製紙技術は伝来していた可能性が考えられる。日本で漉かれ,年代の明らかな最古の紙は正倉院に伝わる702年(大宝2)の美濃,筑前,豊前の戸籍用紙で,すでにそれぞれの地域の特色があらわれている。奈良時代の《正倉院文書》には紙名や加工和紙名が数多く記されており,紙漉きの行われている国として約20国がわかっている。おそらく各国府には,国衙(こくが)(政庁)の指導のもとに製紙場が設けられ,地方で使用する紙をまかない,さらに上等の紙を中央に納めたものと思われ,紙漉きの技術はいちはやく全国に伝播したものとみられる。地方からの中男作物(17~20歳の男子が郷土の産物を作って納める)には,紙が数多く取り上げられている。中央の役所や大寺院に供給する紙を漉き,地方の技術指導にも役を果たしていたのが,図書寮紙屋院に代表される官営の工房であった。紙漉きの忙しくなる冬季(10~3月)には,この紙屋に紙戸と呼ばれる近郊の貧しい農民が大勢手伝いに出ることになっていた。また図書寮の造紙手や造紙長上の役の人々に,秦氏を名のる人々が圧倒的に多いことが指摘されており,日本への紙漉きの伝来と関連して興味ぶかい。
漉かれる紙は,初め一般の公文書や膨大な量が必要な戸籍用紙や租税に関した文書用紙であったが,国家鎮護を祈る写経事業が盛んになるにつれ,経紙など高級紙の需要が増えた。中央ばかりでなく地方でも経紙の生産が行われ,これは製紙技術を向上させるのに大いに役立ったことであろう。当初のころの主要な製紙原料はコウゾ(当時は榖(こく)といった),ガンピ(斐(ひ)),アサまたは麻布の3種であった。麻紙は最も古い伝統を有する紙であり,貴い紙とみられたので,貴重な文書は白麻紙などに記すものであった。しかし,《正倉院文書》などの調査によると,麻紙とされた紙にも,コウゾやガンピを混ぜて使用したものがあるという。麻紙の紙肌は粗く,筆で書きにくいので,写経所などでは牙などで磨く瑩紙(えいし)や槌でたたく打紙(うちがみ)などの加工を施した(瑩紙や打紙などの加工を施した紙を熟紙(じゆくし)といい,漉き上げたままの加工されていない紙を生紙(きがみ)と呼び,区別されていた)。また麻の繊維は長くて強靱なため,5mmほどの長さにいちいち切断するか,麻布を臼でひくなどの原料処理の手間がかかる。こうした書きにくさや原料処理の困難のため,麻紙は平安時代半ばころには製法が絶えてしまった。一方,コウゾやガンピは繊維の長さが適当で,流し漉きの技術が向上すると紙肌がきめ細やかになり,瑩紙や打紙などの加工をせず,生紙(素紙)のまま筆で書くことができた。ガンピは〈ねり〉の成分と似ているので,ガンピを混入して漉くことから,流し漉きが始まったという説(町田誠之)もある。いずれにせよ,《正倉院文書》の用紙の調査によると,紙の繊維が天地の方向にそろって流れ,流し漉きの特色を示しはじめるのが8世紀の前半で,9世紀初めには完成させているという(溜め漉きの紙は繊維の方向が一定しない)。
平安時代の《延喜式》によると,中男作物で紙を納める国は42国に増え,日本のすみずみまで紙漉きの製法が伝わったことを示すとともに,すでに経済力の発達した地域では,手間のかかる製紙から離れるというような傾向をも示している。紙漉きの技術は洗練をきわめ,たとえば西本願寺本《三十六人集》の料紙などにみるように,〈ねり〉の働きを最高度に発揮した装飾紙(飛雲(とびぐも),内曇(うちぐもり),羅文紙(らもんし)など)を生み出している。これらは中央の官営製紙所である図書寮紙屋院(かみやいん)などで漉かれたものであろうが,その装飾紙の一部は,現在の技術では再現が不可能なものがあるほどである。平安時代後半には単に技巧的に優れるばかりでなく,たとえば《枕草子》にみられるように,瑩紙などの加工をしてない素紙(ただのかみ)の美しさを積極的に評価する見方が生まれている。従来,とかく中国大陸からの輸入紙である唐紙(からかみ)を貴いとする見方に対して,清楚な素材の美を尊重する和様の確立が,美術工芸品の分野ばかりでなく,用紙の世界にまで及んでいたのであった。また当時に盛んに作られた絵巻物や装飾経などは,繰り返し巻いたり開いたりしても傷まない,薄くて丈夫な和紙の特性の上に築かれた芸術だった。以上のようにみてくると,平安時代後半に和紙史は一頂点をきわめたと評価することができよう。
中世になって,古代国家体制が崩れると,和紙界も再編成される。中心的存在であった紙屋院は,大都会にあふれる反故紙(ほごし)を原料とした宿紙を中心に漉くようになる。宿紙は,本来,亡き人の消息を経紙に再生して供養するという宗教的な意味があったが,しだいに繰返しの煮熟等で繊維が傷んで,柔軟な鼻紙や落し紙などの日常用品となり,紙屋紙とは粗末な紙という社会的常識が通用するほどになった。古代国家では,国ごとに紙が集められて納められたので,特定の性格の紙が生まれにくかったが,中世には産地の特色が強調されて市場で売買されたため,紙の銘柄が数多く生まれた。その多くは産地名をつけて,たとえば杉原紙(兵庫県多可郡杉原谷村,現,多可町)のように有名になった。古代を代表する紙が檀紙(だんし)(女性は〈みちのくがみ〉と呼んだ)とすると,中世の武士の紙は杉原紙,近世の藩政時代は奉書紙(越前が代表的産地)が時代を象徴する存在である。いずれも楮紙であるが,檀紙はふくよかな感じの厚手の紙で,古風な溜め漉きの味わいを残す。おそらく〈ねり〉を十分にきかして,繊維が容易に簀に付着しにくいくらいにして,ゆったりと時間をかけて漉いたものだろう。紙の表面に繊維がもくもくと雲が湧くような渦をまく。一方,新しい奉書紙は流し漉きの手法がすすみ,繊維が天地方向のみにそろい,紙がすっきりとさえている。杉原紙は,その中間的な存在と,時代による紙の趣向を大まかに図式化してみることも許されよう。中世に紙や原料の座の活躍はめざましく,各地の市で集荷された紙は遠くから中央まで運ばれてきた。現代まで伝わる代表的な和紙の種類は,中世にほぼ出そろっていたといえる。たとえば雁皮紙は,平安時代の薄様(うすよう)などのほかに鳥の子紙,石粉を混入した間似合紙(まにあいがみ)などと種類が豊富になった。戦国時代の領主は,富国強兵策の一つとして製紙を奨励し,江戸時代に盛んになる紙専売制の原型はすでにこのころから行われていた。
江戸時代に各藩が特産物の専売制を行うが,紙が圧倒的に多い。それは,コウゾの繁殖力が強く,ほかに産物の見当たらない貧しい環境でも,紙を漉けば一応の収入を得ることができるという,てっとりばやさにあった。したがって,より効率のよい産業に恵まれた地方では製紙がみられないか,あるいは紙専売制をしいても一部の自由販売を許す(土佐藩など)ゆるやかなものであった。後進地の紙専売制の場合には,強制的に割り当てた紙を残らず藩に納めさせるという過酷な負担が行われた(津和野藩など)。厳しい専売制の場合でも,初めは藩の役人が原料の支給,検査と集荷,大坂などの中央市場への販売などをいっさい行っていたものが,やがて水戸藩のように経費がかかるためにこれらを大問屋にまかせ,利益の一部を藩に納めさせるという形に移行していった。東北地方など,より後進的な地域の専売制では,広範にコウゾの栽培を奨励するなど,殖産的な性格がみられた。江戸時代の和紙は薄くて丈夫という特性から,障子紙,傘紙,合羽(かつぱ)紙など生活のあらゆる面に使われるようになった。そのため紙の需要はさらに拡大されたわけであるが,紙の質よりは規格が重視されるようになり,ひいては書写材料という用途が後退して,文人の間には中国の紙の書き味を和紙より高く評価する傾向が生まれたりした。
明治維新を迎えると,藩の御用紙漉きの廃絶などはあったが,全般的に急増する紙の需要に応じて,手漉和紙の生産は拡大し,1901年ころには約7万戸,製紙に従事する者約20万人という最盛期を迎えた。しかし,それ以後は洋紙の工場生産が本格化するにつれ,急速に減少していった。昭和初期の農村の大凶作,第2次大戦の統制経済などによって和紙生産は減り,41年には1万3000戸となった。近代の和紙は三つに分けられ,第1は障子紙,傘紙など日常生活に用いられるもので,量的に生産の半分以上を占めていた。第2は謄写版原紙(雁皮の薄様),図引(ずびき)紙(三椏紙),タイプライター用紙(楮の典具帖紙(てんぐじようし))など新しく工業的用途のために開拓された紙で,多くは輸出された。高知県伊野町を中心としてくふうされたこれらの紙は,技術的には人技の限界とみられるほどに洗練されたもので,紙の値は他の数倍もし,新時代の花形として注目された。これら新興の工業用紙が,紙幣の原料として栽培を奨励されていたミツマタを大いに活用し,簀桁(すけた)の大型化やビーター,鉄板乾燥などの改良策を導入した役割も大きい。第3は,市場にあらわれず,地味な存在ながら,型紙原紙や渋札紙(しぶふだがみ),箔打紙(はくうちがみ)といった伝統的産業に用いられる紙で,使い手の職人と固く結びついていた。
第2次大戦の直後の物資不足の時期には,手漉和紙の生産も盛んであったが,経済が復興すると急速に衰退した。60年に機械漉きのレーヨン障子紙が登場すると,5年ほどのうちに生漉楮障子紙を除いて手漉き障子紙を駆逐してしまった。続いて傘紙用紙も洋傘の普及で消滅した。すなわち第1類の日常生活に用いられる,大半を占める和紙の用途が消えた。かつて輸出紙として栄えた第2類の工業用紙も,1枚ずつ分離した手漉紙では加工の能率が悪く,切れ目なく作業ができる機械漉きの巻取紙にとって代わられた。第3類の伝統産業に結びつくものは生命が長かったが,和紙を必要とする産業自体の構造がしだいに変化して,さまざまな改良策を導入するにつれ,和紙の購入は減少している。これら伝統産業に用いられる紙は,とりわけ古い形を守り,特殊な性格をもった紙が多いため,数代も続いた販路が消えると他の用途に転換することが困難なため,廃業に直面せざるをえなかった。60年代前半の高度経済成長期にみられた農村人口の都市への大量流出は,農村に基盤をおく手漉和紙に大きな影響を与えた。和紙製造業は71年には1000戸(推定),75年には788戸,82年には586戸となった。日本の文化を支える貴重な和紙の保存のため,国では1969年に重要無形文化財に和紙を指定し,次いで伝統的工芸品に和紙を指定するなどの保護策をとりはじめた。一方,工業用紙などの製造が盛んに行われている昭和初期に,民芸運動の柳宗悦(やなぎむねよし)らは素朴な和紙の価値を主張し,その結果,安部栄四郎の出雲民芸紙などの成果はあったものの,和紙業界全体では無視されていた。しかし,第2次大戦後はどの産地も大なり小なり民芸紙を生産して,需要者と直結するようになり,和紙の貼り紙,和紙人形,和紙の花など大衆的な愛好を集めている。また,寿岳文章らの正倉院の紙の調査をはじめとする和紙の研究が進んだこと,83年に京都で国際紙会議が開催されたことなど,和紙に対して世界中から関心が高まっており,業者の減少にかかわらず,和紙にとって有利な条件も生じつつある。
原料はコウゾ(主要産地は高知,茨城,島根など),ミツマタ(主要産地は岡山,高知,愛媛など),ガンピ(栽培が困難なため野生のものを採集),その他,書道用紙(画仙紙)の場合は竹,イネわら,木材パルプ,古紙などを混合して用いる。また近年,アサやバショウ(芭蕉)などを試みる製紙家も増えている。
(1)白皮の製造 樹皮の黒い表皮を包丁でそぎ取る。靱皮繊維の部分だけの真っ白い〈本引きの白皮〉,緑色の甘皮部分を残す〈撫皮(なぜかわ)〉など,漉く紙に応じて種類がある。(2)川ざらし 白皮を清流に数日漬けて,あらかじめ不純物を溶かし去るとともに,天日で漂白する。(3)煮熟 繊維自体が弱アルカリ性に強いのを利用して,木灰あるいは消石灰やソーダ灰の溶液で白皮を煮て,繊維のまわりの不純物を溶かし去る。省力法としては苛性ソーダで煮る。(4)ちり取り 清水の中であく汁を流すとともに,繊維に残る傷あとなどを指で取り除く。(5)叩解(こうかい) まだ繊維が束の状態なので,木棒などでたたいて1本ずつばらばらにする。ホーレンダー・ビーターにかけて,水中でかくはん(攪拌)してばらばらにする改良策も一般化している。(6)紙出し 特別な紙(たとえば越前奉書,典具帖紙,漆こし用の吉野紙など)では,叩解した原料をさらに水洗いして,純粋に繊維のみとする。もとより歩留りは悪くなる。(7)紙漉き 漉簀(竹ひごやカヤひごを特製の絹糸で編む)や漉桁(水に強い良材のヒノキ製),漉舟などの道具を用い,〈ねり〉を使った流し漉きを行う。漉簀は漉く紙の厚薄や種類に応じて,ひごの太さや間隔が違うため,専門の簀編職人やひごづくり,編糸づくりの職人がいる。精緻(せいち)であるとともに水中の激しい操作に耐える強靱さを兼ね備えた紙漉道具によって,丈夫で美しい紙が漉かれる。紙漉きの操作には,初水(うぶみず)→調子(ちようし)→捨て水の3段階の基本があるが,細部は各産地ごとに伝統的な操作がある。たとえば簀の上の紙料液を前後(天地)方向に揺する操作と,それに横(左右)に揺する方法を加えた操作に大別できる。前後に揺する操作にも,越前奉書のようにゆったりと単調に繰り返すものと,石州半紙のようにより激しく緩急の変化をつけて揺するものなどに分かれる。また横揺りを加える操作にも,本美濃紙のようにゆったりと繰り返し左右に揺する方法と,典具帖紙のように激しく揺り動かして簀の上に二つの渦を巻かせるものなどと変化が多い。この操作の変化が和紙の豊かな内容を形づくっている。いずれにせよ,水の働きを使って靱皮繊維どうしを整然と十分に絡み合わせる。洋紙などのように接着剤を用いず,純粋に自然材の繊維のみで組成されるため,数千年も耐える和紙の保存力が生まれてくる。(8)圧搾 漉き上げたぬれ紙を1夜おいて自然に水を流したのち,紙の地合(じあい)(紙層)を傷めないよう注意しながら,圧力を加えて,水分を搾り取る。(9)乾燥 伝統的な干し板による天日乾燥と,加熱した鉄板などによる火力乾燥がある。(10)仕上げ 紙を選別し,紙切包丁による裁断を行ったのち,規定の枚数に包装する。近年は裁断せず,耳付きのままが好まれるようになった。
墨流しのように,仕上がった紙に加工して加飾する以外に,漉く工程の中で行われる加飾のおもなものとして次のものがあげられる。(1)打(内)曇(うちぐもり),飛雲(とびぐも) ともに地紙の上に着色した繊維(多くはガンピ)を漉きかけるもの。打曇は紙の天地にたなびく雲のようにかかり,飛雲は紙のあちこちに浮遊する雲のようにかける。(2)雲竜紙(うんりゆうし)(雲紙(くもがみ)) 着色した繊維や手ちぎりの長い繊維で漉いた紙で,水の変化のある動きが長い繊維にあらわれる。短い繊維のミツマタ等を使えば雲肌紙(くもはだがみ)となる。(3)水玉紙(みずたまし) 白い地紙の上に藍などの薄紙を漉き合わせ,上から水滴を落として上にかけた紙に穴をあけ,地紙の白色を露出させたもの。水力を使って加飾するものとしては,落水紙(らくすいし),レース紙,水流紙(すいりゆうし)などがある。(4)塵入(ちりいり)紙 本来,素朴な製法ではコウゾの黒皮などが自然に混ざったが,のちに通常の紙料に装飾的な意図で黒皮,さらにはそばがら,イグサ,コケ(苔),金銀砂子などまで混入して漉くようになった。(5)漉合せ紙 まず地紙を漉いて,その上に木の葉,蝶などを置き,さらに別に漉いた薄紙を伏せ重ねて1枚としたもの。(6)透し入り紙 簀に型紙を付けた紗(しや)を貼って漉くと,紙の厚さに文様の凹凸が生じる。光にかざして見て,文様部分が薄くて白く透ける〈白透き〉と厚いために黒くなる〈黒透き〉の2種があるが,黒透きは紙幣の透し方法であるため民間で漉くことが禁じられている。透しは本来,短い繊維で漉くと鮮明にあらわれるもので,長い繊維の和紙では得手ではなかったが,近年,校章の透し入りの卒業証書や市町村のマークの透し入りの賞状が普及して,生産が多くなっている。型紙を使うものとしては,包紙などに使われる抜き模様紙,置き模様紙がある。(7)繊維引っ掛け紙 俗に〈ひっかけ〉と呼ばれ,水に浮いているミツマタなどの繊維を文様の金型ですくい取って,別に漉いた地紙に付着させたもので,襖紙(ふすまがみ)などに用いられる。またミツマタ繊維に金銀粉や雲母などを絡み合わせて,漉き合わせる装飾もよく用いられる。(8)布目(ぬのめ)紙 漉き上げたぬれ紙を紙床(しと)に重ねる際,粗い布目を敷いて圧搾して布目の凹凸をつける。漁網のように粗いものから,絹布まで種類がある。(9)皺入(しぼいり)檀紙 檀紙は本来,人工的な皺がないものだったが,江戸時代から皺入りのものがあらわれ,しだいに檀紙とは皺入りのものという常識が生まれた。通常,圧搾の終わった紙床からぬれ紙をはがす場合,1枚ずつはがすが,これをあらかじめはがして紙の腰を柔軟にした紙とともに数枚いっしょにはがすと,張力の違いで自然に皺を生じる。皺の入り方で麦わら,菱絞,横絞などの種類があり,へらで押してつける文様もある。短い繊維ならば型にぬれ紙を貼って凹凸をつけるが,和紙のように長い繊維が絡んで丈夫な場合,ぬれ紙の状態でもいろいろの加工ができる。
現在,和紙の用途は細分化しているが,そのなかで多いのは混合原料の書道用紙(画仙紙),各種の表具用紙,手芸用の各種の染紙(そめがみ)などで,和紙の基本的な姿である未晒し(みさらし)の生漉紙(純粋な原料の紙)は必ずしも多くない。ただし,和紙の丈夫さや保存力が世界的に注目され,とくに書物や壁画などの文化財の保存・修理に貴重なものとして高く評価されつつある。また,墨と筆による書写材料という,和紙の本来の用途である書画用紙(生漉紙による日本画用紙,版画用紙,書道用紙など)も徐々に多くなりつつある。
→料紙装飾
執筆者:柳橋 真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
わが国固有の方法でつくられた紙の総称で,コウゾ(楮,クワ科カジノキ属の落葉低木),ミツマタ(三椏,ジンチョウゲ科の落葉低木),ガンピなどの靭皮繊維を原料として,本来は手すき法によってつくられたものをいう.現在は,原料の違いだけで洋紙と区別されている.中国において発明された紙の製法が,7世紀初頭,高麗よりわが国に伝えられ,その後,日本特有の手法が完成され,江戸時代には土佐紙,美濃紙など生産地名がつくほど全国的に普及した.しかし,明治以後,西欧式の製紙法の普及によりしだいに衰退していった.また,原料も前記のもの以外に,補助原料として,木材,麻,木綿およびワラのパルプなどが用いられるようになった.製法は紙料に特殊な植物粘質物を加えることが大きな特徴で,この粘質物をねりとよび,アオイ科に属するトロロアオイの根からおもに採取する.この粘質物の添加により,地合のよい,強靭な薄紙が得られる.和紙の特長は,強靭さ,柔軟さ,優美さであるが,紙面は粗雑で吸水性が強く,墨書きには向くが,ペン書き,インキ印刷には適さない.しかし,洋紙に近い和紙も現在はつくられており,区別のつかない場合が多い.用途は,奉書,障子紙,紙幣,装飾用紙,コピー用紙など.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
出典 リフォーム ホームプロリフォーム用語集について 情報
…前者を内面サイジングまたはエンジンサイジング,後者を表面サイジングまたはタブサイジングと呼ぶ。
[内面サイジング]
和紙ではトロロアオイの根から抽出した〈ねり〉を加えて抄紙するので,それが部分的にサイズの役割を果たしている。それでもとくにサイジングを必要とするときは〈にかわ〉も用いられる。…
…《今川大双紙》は室町時代の初期に今川貞世(さだよ)(了俊(りようしゆん))が著した武家故実の書であり,たとえば金(かね)の包み方として,所柄や季節に応じた包み方,材料およびその色合いの選び方などについて述べている。 室町時代までは,〈包み〉の礼法は将軍家を中心とする上流階層にしか行われなかったが,江戸時代中期になると和紙が全国各地で大量に生産されるようになり,武士に限らず一般庶民の間でも広く用いられるようになった。先に述べた伊勢氏の中興の祖といわれる伊勢貞丈(さだたけ)(安斎)は江戸中期,宝暦年間に《包結図説(ほうけつずせつ)》を著したが,これは〈包の部〉と〈結の部〉の2部からなり,その前者において,包む中味や用途に従った各種の礼法が定められた。…
…現存するヨーロッパ最古の版画は14世紀の第4四半期のものである。紙が今日のようにパルプを原料とするようになるのは18世紀のことであるが,日本のコウゾ,ミツマタなどでつくられた和紙は上質で,鎖国時代にも輸出され,レンブラントその他も版画に用いている。紙以前から用いられた台材としては布地,革(羊,子牛),板などがあり,ことに布は正倉院の交纈(こうけち),夾纈(きようけち),﨟纈(ろうけち)の染布をはじめとして,プリント染としても日常化されている。…
※「和紙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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