茗荷谷村(読み)みようがだにむら

日本歴史地名大系 「茗荷谷村」の解説

茗荷谷村
みようがだにむら

[現在地名]上市町大岩おおいわ

大岩村ともいう(三州地理志稿)白岩しらいわ川の支流大岩川上流に位置し、真言密宗の古刹日石につせき寺がある。大岩川沿いに柿沢かきざわ村から当村に至る道は、塩谷しおのたに村を通る道と大松おおまつ村を通る道とがある。治承四年(一一八〇)源頼朝が石橋山合戦に敗れたとき嘉藤正元が遠く北陸に逃れ、住み着いて大松を開き、その家臣唐須仁助がさらに奥地の当地に住み着いて大岩の開祖となったと伝える(上市町誌)。「越中志徴」は源為朝の位牌堂と伝える専立せんりゆう寺跡と土肥美作守の奥城という茗荷谷山砦跡を載せる。正保郷帳では高八〇石余、田方五町余・畑方三反余、ほかに新田高一〇一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高一三三石、免五ツ一歩、小物成は山役一二〇匁・漆役八匁・蝋役四匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)


茗荷谷村
みようがだにむら

[現在地名]新発田市茗荷谷

金津新かなづしん村の東、加地氏山城のあった加治かじ(要害山)の裏側(北)にあたる麓の集落で、字城山じようやまには加治城の出城かとみられる砦跡が残る。正保国絵図に「茗ケ谷村」とみえ、村上藩領。延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると河尻組に属し、高二四三石三斗余、免五ツ、田畑二二町三畝余、家数一九、人数一一二。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、正徳三年(一七一三)の書上帳(新発田市史資料)では高二四六石九斗余、うち新田一〇石九斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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