神明社(読み)シンメイシャ

デジタル大辞泉 「神明社」の意味・読み・例文・類語

しんめい‐しゃ【神明社】

中世以降、天照大神あまてらすおおみかみあるいは伊勢両宮をまつる神社。神明宮

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精選版 日本国語大辞典 「神明社」の意味・読み・例文・類語

しんめい‐しゃ【神明社】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 中世以降、伊勢神宮の神領地などゆかりのある土地に内外二宮の神霊を勧請(かんじょう)した神社。また、戦国末期から、伊勢の大神が一夜にして各地を飛び移るという信仰を生じ、これを飛神明(とびしんめい)と称した。江戸の芝神明(芝大神宮)、大阪天満の神明社などが有名。神明宮。
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 秋田市土崎港中央にある神社。旧県社。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。慶長年間(一五九六‐一六一五)藩主佐竹氏ゆかりの商人川口彌左衛門が創始し、元和六年(一六二〇)現在地に社殿を建立(こんりゅう)
    2. [ 二 ] 福井県鯖江市水落町にある神社。旧県社。祭神は天照大神。安康天皇の代の創建ともいう。大治四年(一一二九)湯の花山(神明山)から移し社殿を建立。神明神社。お神明さん。

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日本歴史地名大系 「神明社」の解説

神明社
しんめいしや

[現在地名]南知多町篠島

神戸ごうどの地にある。祭神は天照大神・大土御祖神・宇賀御魂神・大歳神。当社社記によれば、倭姫命が皇大神宮奉祀の時篠島しのじまを御贄所に選び、神領としてここに荒御魂宮を祀り、さらに贄代守護のため宝亀年間(七七〇―七八一)外宮の末社土宮(大土御祖神)を遷座、神官辻三大夫が神霊を守護して来島、伊勢二見ふたみうらに土宮遥拝所が設けられた。こうした関係で、神宮造営の翌年神宮の用材である内宮東宝殿と鳥居二基をもって当社を改築した。昔は荒御魂宮と土宮は別個の二社であったが、中世合祀して神明社となった。


神明社
しんめいしや

[現在地名]城端町細木

細木ほそき堂・細木の宮・五ヵ村の宮とも称し、祭神は豊受大神。山田新田やまだしんでん用水の守護神として、用水が竣工した延宝年間(一六七三―八一)の創建。山田新田用水は初め五ヵ村用水と称し、延宝元年に完工し通水した。山田新田由来書(山田新田用水史)に「山田新田、先年山田野与申野ニ而、御新開之儀者、寛文年中乍恐、松雲院様城端江被為入、此野辺御鷹野被遊候節、右野辺ニ而御弁当被為召上候、其節御上覧ニ留リ候哉、此所御新開之儀被為仰出候」とあり、加賀藩主前田綱紀の発意により開削された。五ヵ村とは大窪新おおくぼしん村・細木新村と天池新あまいけしん村・縄蔵新なわぐらしん村・赤坂新あかさかしん(現福光町)で、用水は小矢部おやべ川から取水し、その受益範囲は年々拡大した。


神明社
しんめいしや

[現在地名]沼南町塚崎 清水台

塚崎つかざきの南端、大津おおつ川中流右岸に面する丘陵上に位置し、社域には鬱蒼たる森が茂る。天照皇大神・応神天皇・武甕槌神を祀り、旧村社。表参道は伊勢神宮に向かうといわれ、同神宮領相馬そうま御厨と密接な関係があったとも伝える。創立はつまびらかではないが、明治三七年(一九〇四)境内に建てられた碑文には嘉元―徳治年間(一三〇三―〇八)の造営と記される。近世には社領朱印地一〇石が与えられていた(社蔵文書)


神明社
しんめいしや

[現在地名]秋田市土崎港中央三丁目

みなと城跡にあり、祭神天照大神。旧県社。「適産調」に、次のようにある。

<資料は省略されています>

川口惣治郎(弥左衛門)永覚えいかく町に住んだ問屋であった。川口氏が常陸から奉祀した内神神明社がやがて惣町の信仰を集め、元和六年(一六二〇)湊町の鎮守として湊城跡に奉遷された。藩の信仰も厚く、「真筆懸額」の寄付もあり、寛政八年(一七九六)米一〇〇石を「湊町鎮守神明社倉為一郷備」として沖出役銀を無役とした(「覚」土崎港町史)


神明社
しんめいしや

[現在地名]豊橋市湊町

俗にみなと町の神明社とよんでいる。祭神は天照大神。

創建は白鳳元年といい、秦御厨または吉田御園に奉祀された神社という。永禄四年(一五六一)今川氏真は神地一〇貫三五文を寄進し、慶長六年(一六〇一)伊奈忠次は一〇石の黒印状を、さらに慶安二年(一六四九)徳川幕府から社領一〇石の朱印状を寄進された。「三州三河記」によると氏子は坂下さかした町・町・ふな町に広がる。

元和年間(一六一五―二四)より御衣おんぞ祭が行われている。「三河国吉田領中附遠江風俗大概」四月の項に「十三日十四日の両日オンゾといふ事ありて、此両日は婦人、紡績・機織・裁縫等の業を一切ニ休む事四民共に同じ。


神明社
しんめいしや

[現在地名]横手市神明町

羽州街道沿いの東側にある。祭神は天照大神をはじめ一一柱。「雪の出羽路」に「神明宮 南ノ岡に鎮座ませり」「上宮太子ノ社(中略)おなじ杜の内に斎ひ奉る」「此神社は前郷村の松原山に在り」とし、上宮太子ノ社の造立を貞享二年(一六八五)と記す。両社殿は文政期(一八一八―三〇)以後、付近の大乗院塚だいじよういんづかに移り、さらに明治一三年(一八八〇)山崎の現社地に移った(横手郷土史資料)。上宮太子ノ社は、明治六年木匠神社と改称され、神明社の境内社。

祭礼は神明宮が七月二一日、上宮太子ノ社が四月六日、横手の大祭は上宮太子ノ社の祭で、「四月五日には山崎といふ処の行宮に在りて斎夜いみや神事の式ありて、夜一夜を人群レり。


神明社
しんめいしや

[現在地名]田原町田原 北番場

祭神は天照皇大神。境内は一千四九一坪、周囲は雑木林で覆われている。応安七年(一三七四)白谷しろや郷の神明宮を田原のひら(現田原城跡)に遷座し、文明一二年(一四八〇)戸田宗光の田原築城に際し、現在地に移されたという(田原城主考)。天文二二年(一五五三)今川氏の社領四貫七四七文の証文があり、永禄八年(一五六五)徳川家康の安堵状がある。


神明社
しんめいしや

[現在地名]幡豆町鳥羽 西迫

祭神は天照大神、末社として春日・熊野・御鍬・白山・西の五社があり、ほかに津島・愛宕・古浜・八幡・砥賀・粟嶋の六社が合祀されている。社寺明細帳所載の棟札に「元禄六年癸酉卯吉祥日 名主大西与兵衛 年寄天野喜兵衛 組頭大西斎兵衛外四人 神主深谷神五郎」とあるが、それ以前は不詳。境内の西南に神宮じんぐう廃寺があり、神社の創立は古いようである。


神明社
しんめいしや

[現在地名]白石市 益岡

白石城跡の西北隅にある。祭神は天御中主神・天照大神以下五神。旧郷社。もとは白石城下町なが町の社人佐藤甚太夫の住居が御旅所で、本宮は長袋ながぶくろ村のしたの神明社であった。佐藤甚太夫家は「白石本郷安永風土記」によると、先祖は佐藤源左衛門といい、片倉景綱の所領替に従って慶長年中(一五九六―一六一五)小堤こづつみ(現亘理郡亘理町)より当地に移住し、長袋村神明社の神主を兼ねたという。


神明社
しんめいしや

[現在地名]東山区中之町

十禅師じゆうぜんじの辻にあり、鳥居小路家の奉祭した社。「山城名跡巡行志(宝暦四年成立)鳥居小路とりいこうじ路傍にありとする。「粟田地誌漫録」は「此社、昔より坊官鳥居小路の家より支配せり。元来、鳥居小路の家は阿保親王の末葉、業平の裔にて、高階を姓とす。業平伊勢斎宮の故あるに依て参宮を忌み、別に此宮を造営し、参詣せしめん為」という伝説を載せるが、伊勢神宮の神霊が勧請された時期は明らかではない。


神明社
しんめいしや

[現在地名]大館市中神明町

旧大館城下町の西南の外れにあり、現祭神は天照大神など。町人町である外町の鎮守。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図および享保一三年(一七二八)の大館城下絵図に「伊勢堂」とみえる。幕末の「郷村史略」に「下神明堂ハある者の内神なる由 延宝のはしめより大館の鎮守となる 八月朔日神輿此時より町々をくねる 別当大福院ハ餌釣村より移り 大町角屋敷に住居して 慶安の頃霞処ニなる」とある。


神明社
しんめいしや

[現在地名]東区徳川二丁目

祭神天照大神。旧郷社。初め山口やまぐち神明または赤塚あかつか神明と称し、この辺りの総産土神であった(寺社志、名古屋神社誌)。勧請年月不詳。元和二年(一六一六)赤塚町民が氏神としたという(吉見家訓)。寛永五年(一六二八)に再建(名古屋神社誌)。境内七七四坪余は除地。神職近藤求馬は絵画に優れ、同孝久は書をよくした(名古屋人物史料)


神明社
しんめいしや

[現在地名]名東区猪高町藤森 洞前

祭神は菊理媛命・国常立尊。旧村社。「寛文覚書」は、藤森ふじもり村の社として猿投大明神・富士権現・山之神の三社を記録し、「府志」は永享元年(一四二九)創建と伝える白山社を記す。「徇行記」「尾張志」は神明・白山相殿社とし、弘化四年(一八四七)の村絵図(徳川林政史蔵)には氏神とある。


神明社
しんめいしや

[現在地名]比内町扇田 本道端

長岡ながおか城跡の近くにあり、現祭神は天照大神。旧郷社。「郷村史略」に「伊勢産皇神 祭祀六月十五日 末社太子堂 稲荷別当扇田寺」とある。由緒によれば天正三年(一五七五)、比内の領主浅利与市が社殿を改築したという。


神明社
しんめいしや

[現在地名]西尾市上永良町 宮東

上永良かみながら町の東端、広田こうた川辺に鎮座。天照大神・誉田別尊・天児屋根命を祀る。清和天皇の御代の創建という。寛永二年(一六二五)上永良村の出生と伝えられる伊予松山まつやま(現愛媛県松山市)城主加藤左馬之介嘉明が本殿再建。


神明社
しんめいしや

[現在地名]豊橋市大岩町

村域北方にある。祭神は天照大神。由緒書に文武天皇二年岩屋いわや山南に勧請。保延元年(一一三五)大岩おおいわ村が本郷ほんごうへ移村の時同地へ遷宮し、次いで天正一一年(一五八三)元屋敷もとやしきへ移村のため同所へ遷宮、正保元年(一六四四)現在地へ移村と同時に当社も遷座されたとある。


神明社
しんめいしや

[現在地名]小牧市小牧 山東

祭神は天照大神。旧郷社。永禄六年(一五六三)織田信長が居城を清須きよす(現西春日井郡清洲町)から小牧山に移した際、清須にあった御園神明を守護神として小牧に移し、駒来こまき神社と名付けたのが創建(府志)。のち徳川義直が小牧村に来遊した折、この神社を吉祥の社として、小児に牡丹の造花を持たせ社殿で歌舞させた。


神明社
しんめいしや

[現在地名]江南市石枕

祭神武杵命。旧郷社。境内一千二九八坪。境内社に白山社・稲荷社。「延喜式」神名帳に「石作イシツクリ神社」、尾張国神名帳に「従三位上 石作天神」とみえる。「府志」に「石作天神祠墟在石枕村」とある。創建は貞元二年(九七七)という(神社明細書)


神明社
しんめいしや

[現在地名]南区豊田町

祭神は天照皇太神。御替地おかえち神社ともいい、新田開発時に勧請。社内に竜神社・秋葉社・熱田社・津島社・池鯉鮒ちりゆう社・稲荷社を合祀する。円空作の竜神像があり、安永九年(一七八〇)七月、荒子観音あらこかんのん(現中川区)から勧請した旨の墨書が仏像背面に記されている。


神明社
しんめいしや

[現在地名]飯田川町下虻川 屋敷

旧羽州街道に沿い、西は八郎潟湖岸を望み、東はゆたか川。祭神は天照大神。旧村社。

菅江真澄の「軒の山吹」によれば、寛文四年(一六六四)二代藩主佐竹義隆の建立といい、「奉造立天照太神宮社檀大檀主源義隆公 開眼久保田宝鏡院宥遍 奉行若木五左衛門 寛文六月二日 別当福蔵坊」の棟札を有するとある。


神明社
しんめいしや

[現在地名]猿島町沓掛

飯沼新田いいぬましんでんの枝ヤトに臨む神明塚しんめいづか古墳上に鎮座。祭神天疎向津比売命。当地の木村氏一族の氏神として奉斎され、宗家を中心に祭祀が行われている。境内の碑に刻まれた伝説によると、往古より繁茂していた木立は次々と枯死したが、一本の欅だけが残り、人々はこれを神木とよぶようになり、欅の傍らに社を祀ったという。


神明社
しんめいしや

[現在地名]湯沢市伊勢堂山

湯沢の所預佐竹南家の居館であった旧淡路あわじ屋敷跡の北方の山腹にあり、祭神は天照大神・豊受大神ほか四柱。旧郷社。

永正年間(一五〇四―二一)に建立と伝える。南家の祈願所的存在で、寛文五年(一六六五)に所預佐竹義敝が三五石を寄進したという。


神明社
しんめいしや

[現在地名]浄法寺町浄法寺 八幡舘

八幡舘はちまんだての高い所に鎮座し、祭神は天照大御神、旧郷社。例祭は九月一四日。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「境内百四十三坪、本村の裏手高き所にあり、本社一間四方東向茅葺拝殿二間に三間鳥居一基あり」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「神明社」の意味・わかりやすい解説

神明社 (しんめいしゃ)

天照大神または伊勢内外宮の神をまつった神社。神明宮,神明神社,太神宮,伊勢宮(いせみや)などともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至った。伊勢神宮の神領(神戸(かんべ),御厨)の設定された地に天照大神の分霊を迎えて神明社が創建される例は,鎌倉時代に見えはじめ,早いものとしては1186年(文治2)鎌倉甘縄(あまなわ)の神明社が源頼朝によって修理を加えられて,〈伊勢別宮〉とされていた事例がある(《吾妻鏡》)。伊勢信仰の発展とともに,この風は神戸,御厨以外の地でもしきりに発生し,ことに南北朝期以後,今(いま)神明とか飛(とび)神明とかよんで,伊勢内外宮の神が各地に迎えられてまつられることがあいついだ。京都近くの宇治神明社は1416年(応永23)ころから皇族や公卿,禅僧の日記に頻出するようになるが,狂言《今神明》にも〈宇治へ神明の飛ばせられた〉とある。

 中世の末から近世の初めにかけて全国的に伊勢神宮参詣が流行するようになると,僻遠の地にも神明社がまつられる。神宮の大麻(たいま)を御霊代(みたましろ)として祠に納める形に始まり,それが成長して神明社となるに至った例が多い。現在も各地の鎮守社境内に摂社・末社として神明社(祠の形にとどまるのも多い)が多く置かれているのはそのためである。近世初期,全国的な土地開発の進展により,在郷町新田村に神明社が創建され,城下町や商工都市での例と同様めざましい現象であった。なお,東京都の23区内には,芝大神宮(飯倉御厨のゆかりによる創建)を除いて神明・太神宮とよばれるものがほとんどないが,これは明治初年に東京府がいっせいに府域内の神明・太神宮を〈天祖(てんそ)神社〉(天照(てんしよう)の呼称からの発想によるか)と改称させたことによる。
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百科事典マイペディア 「神明社」の意味・わかりやすい解説

神明社【しんめいしゃ】

伊勢神宮を各地に勧請(かんじょう),分祀した社。中世以来,伊勢信仰が流布し,各地にあった伊勢神宮の御厨(みくりや)・御園(みその)などを拠点として,御師(おし)が活動し,そこに同宮の分祀社が続々と設けられ,これを神明社・神明宮といった。皇大神宮・豊受大神宮双方の場合,またいずれか一方の場合もある。神明は〈天地神明〉などと使われるように,神の意である。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神明社」の意味・わかりやすい解説

神明社
しんめいしゃ

天照大神(あまてらすおおみかみ)もしくは伊勢(いせ)両宮を祀(まつ)る社の総称。元来、伊勢神宮は、皇室の祖神として私幣禁断の伝統があったが、平安末期ころより一般の参拝も認められるようになり、神領や神宮祠官(しかん)の移住先などに神明社の創立をみるようになる。また中世以降は御師(おし)の活動とともにさらに多くの勧請(かんじょう)をみた。飛(とび)神明といい、天照大神が飛んできたために社を創建したという伝承も各地にある。神明社はことに東海・関東地方に多く、東京ではこれを天祖(てんそ)神社という。

[茂木貞純]

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事典 日本の地域遺産 「神明社」の解説

神明社

(愛知県岡崎市小針町字的場1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積2,400【m2】

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神明社」の意味・わかりやすい解説

神明社
しんめいしゃ

中世以降,アマテラスオオミカミあるいは伊勢の内・外宮の神を祀った全国各地にある神社。神明宮ともいう。

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世界大百科事典(旧版)内の神明社の言及

【芝】より

…そして増上寺および芝神明(飯倉神宮)の門前各町がある。神明社には江戸三宮芝居として有名な芝居がかかりにぎわった。神明社周辺には書物問屋と関連業種の問屋商人も多かった。…

※「神明社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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