草津宿(読み)くさつしゆく

日本歴史地名大系 「草津宿」の解説

草津宿
くさつしゆく

東海道と中山道が合流する地点に位置する。江戸側の宿は東海道では石部いしべ宿(現甲賀郡石部町)、中山道では守山宿、京都側は大津宿に継立てる。南に連なる矢倉やぐらからは矢橋やばせ湊へ至る矢橋街道が分岐するなど、交通の要衝であった。里程は石部宿まで二里半一七町五四間、守山宿まで一里半、大津宿まで三里半六町、矢橋まで一里八町(東海道宿村大概帳)

〔中世〕

中世後期に野路のじ宿に代わって重要視された草津宿の成立は未詳だが、正安元年(一二九九)成立の「一遍上人絵伝」巻七に、結縁のために一遍が「近江国草津と申所」を訪れたことが記され、人々の集住を推測させる。応永二一年(一四一四)一二月の将軍足利義持の伊勢参宮に随行した「室町殿伊勢参宮記」の筆者は、中世東海道と伊勢大路の分岐点と考えられる「草津の宿」で「枕にもたれかむすばん冬がれて草津の里は霜深きころ」と詠んでいる。義持はまた、同二九年に後小松上皇の代参として伊勢参宮を命じられた際、草津に宿泊施設を造営したといわれる(「花営三代記」同年九月一八日条など)。世にいう草津御所で、「草津御所造営」には近江一国平均段銭が賦課されたらしい(寛正六年二月一三日「室町幕府奉行人奉書」竹生島文書)。「満済准后日記」永享五年(一四三三)閏七月一七日条によると、上洛する信濃守護小笠原氏と馬借土一揆数千人が草津付近で衝突、合戦の末に守護側は守山に引返しており、草津宿は馬借の拠点であったと考えられる。さらに嘉吉二年(一四四二)六月には、粟田口あわたぐち(現京都市東山区)にあった東国口率分関(御厨子所雑分率分関)が草津に移されており(「建内記」同三年五月二二日条)、以上のことは草津宿の交通上の重要性を物語るものといえよう。

長禄三年(一四五九)伊勢参宮に向かった雲泉大極は、「碧山日録」同年三月九日条に草津で京極勝秀の軍勢(家臣一五人・兵五千人)と出会ったことを記し、草津から東に折れて七里の「皆口駅」(現甲賀郡水口町)に宿をとっている。文正元年(一四六六)閏二月一二日に田村刑部大輔親直は「勢多郷内草津村地頭職」を山門禅覚坊に代五一〇貫文で売却。文明四年(一四七二)一二月一三日に田村山城守直繁が同額で買戻している(「政所賦銘引付」同一〇年九月三〇日条)。田村氏は室町幕府奉公衆の一員で、草津・野路両村の領主とされる(草津市史)。明応元年(一四九二)九月四日には、第二次六角征伐に参陣した若狭守護武田元信の軍勢が草津に陣を構えたようで、陣内で発生した喧嘩によって、草津宿が放火されている(「蔭涼軒日録」同月五日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「草津宿」の解説

草津宿

(滋賀県草津市)
湖国百選 街道編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の草津宿の言及

【草津[市]】より

…人口10万1828(1995)。古くから交通の要衝で,江戸時代には東海道と中山道の分岐点の宿場町としてにぎわい,現在も草津宿本陣(史)が残っている。琵琶湖岸の矢橋(やばせ)は近江八景の一つ〈矢橋の帰帆〉で知られる湖港で,東海道と連絡する湖上交通の要地として栄えた。…

※「草津宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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