朝日日本歴史人物事典 「菅沼定盈」の解説
菅沼定盈
生年:天文12(1543)
戦国・江戸前期の武将。三河野田城(愛知県新城市)城主菅沼定村の子。母は松平忠定の娘。幼名竹千代,通称新八郎,のち従五位下・織部正に叙任されている。はじめ今川義元に属していたが,桶狭間の戦で義元が討たれた翌永禄4(1561)年,東三河の諸将と共に今川氏真から離れて徳川家康に属し本領を安堵された。このとき今川氏によって一時野田城を奪われるが,すぐ奪回している。永禄11(1568)年,家康の遠江侵攻に際し菅沼忠久,近藤康用,鈴木重時の井伊谷三人衆を誘降し,その功によって遠江で加増を受けた。天正1(1573)年1月から武田信玄に本拠の野田城を攻められ,最終的には水の手を断たれて落城。一時,武田方に捕らえられたが,奥平貞勝ら山家三方衆の人質と交換という形で釈放されている。天正3(1575)年の長篠の戦ののち野田城を回復し,同12年の小牧・長久手の戦,同18年の小田原攻めにも従軍して戦功があった。家康の関東移封に際し,上野国(一説に武蔵国)の阿保で1万石を領したが,その後致仕し,家督を子定仍に譲っている。関ケ原の戦には家康から江戸城留守居を命ぜられ,戦いののち,定仍が伊勢長島2万石となって移っていったので,定盈もそれに従い同地で没した。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報