菅野八郎(読み)かんのはちろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅野八郎」の意味・わかりやすい解説

菅野八郎
かんのはちろう
(1810―1888)

幕末期、世直し騒動指導者と目された人物。陸奥(むつ)国伊達(だて)郡金原田(かなはらだ)村(福島県伊達市)の村役人の子に生まれる。陽明学を学んだ父の影響で、代官の不正、幕府の海防政策などに強い関心をもち、批判的な行動をとり、水戸藩士などに接近したため、安政の大獄に連座し投獄され、八丈島へ遠島となる。ここで京都の神職梅辻規清(うめつじのりきよ)に学び、帰郷後、権力の不正や圧政に抵抗する組織(誠信講)をつくり、1866年(慶応2)には信夫(しのぶ)・伊達両郡の大世直し騒動の陰の指導者と目されるほど、参加した農民らに思想的影響を与え「世直し八老大明神(はちろうだいみょうじん)」と崇(あが)められた。ただ明治維新以降の生涯はまだつまびらかではない。八郎のおもな著作は『民衆運動の思想』(岩波思想大系)に収められている。

[青木美智男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「菅野八郎」の解説

菅野八郎

没年:明治21.1.2(1888)
生年:文化7.8.5(1810.9.3)
幕末の世直し一揆指導者。陸奥国伊達郡金原田村(福島県保原町)の農民。年少より儒学を学び,義心があった。義弟の水戸藩士に送った書翰で攘夷主義を主張したことが幕吏に知られ,安政大獄に巻き込まれ八丈島に流された。元治1(1864)年,赦免されて帰村。農民教化,農村振興のため誠信講を創設・運営した。慶応2(1866)年,生糸蚕種役,高利貸付,伝馬助郷役の宥免を要求した一揆を指導,世直し大明神と農民から尊信された。同年7月捕縛,明治1(1868)年,赦免。金原田村で晩年まで営農した。<参考文献>高橋莞治『金原田八郎伝』

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菅野八郎」の解説

菅野八郎 かんの-はちろう

1810-1888 幕末の民衆運動指導者。
文化7年8月5日生まれ。幕府の海防策を批判したため,安政の大獄にまきこまれ,八丈島に流される。郷里陸奥(むつ)伊達郡(福島県)にかえり,誠信講を組織し,慶応2年(1866)信夫・伊達両郡の世直し一揆を指導。「世直し八老大明神」とよばれた。明治21年1月2日死去。79歳。著作に「菅野実記」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の菅野八郎の言及

【信達騒動】より

…しかし,これは生産農民を圧迫することになったので,1866年6月両郡の農民は蜂起し,統制に荷担した業者宅をはじめ,長州出兵などによる過酷な人馬徴発の軽減,米価引下げなど世直しを求めて,助郷役人宅まで打ちこわして統制撤廃に成功した。この騒動は民衆思想家菅野(かんの)八郎が指導したことで有名である。【青木 美智男】。…

※「菅野八郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android