信達一揆(読み)しんだついっき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「信達一揆」の意味・わかりやすい解説

信達一揆
しんだついっき

江戸時代後期と末期に、陸奥国(むつのくに)信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡(福島市周辺)にまたがり起こった大百姓一揆。1749年(寛延2)と1866年(慶応2)に起こっている。

(1)1749年の寛延(かんえん)一揆(彦内(ひこない)騒動)は、幕府桑折(こおり)代官所に新たに赴任した代官神山三郎左衛門(かみやまさぶろうざえもん)が、管轄下の村々が凶作にもかかわらず、年貢を増徴しようとしたのに対し、減免や代金納・分割納入などを求めて、68か村の農民が12月11日代官所を襲った。指導者の伊達郡長倉村(伊達市)組頭斎藤彦内らは獄門・死罪などに処せられたが、要求の多くは実現した。

(2)1866年の慶応(けいおう)一揆は、物価高騰、助郷(すけごう)加重負担、蚕種・生糸の不良品取締りを名目にした荷改め料徴収などに反対し、信夫・伊達両郡全域の農民らが、加担した在方商人らに打毀(うちこわし)をかけたもの。6月15日から七日八晩にわたり49か村164戸を打毀し、要求を実現した。金原田(かなはらだ)村(伊達市)の農民思想家菅野八郎(かんのはちろう)が指導者と目され、彼は「世直し大明神」とよばれた。また長州出兵の最中に起こった世直し騒動で、関東武州一揆とともに幕府に大きな打撃を与えた。

[青木美智男]

『庄司吉之助著『世直し一揆の研究』増補版(1970・校倉書房)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「信達一揆」の解説

信達一揆
しんたついっき

陸奥国信夫・伊達両郡(現,福島市付近)の幕領に発生した百姓一揆。(1)1729年(享保14)大森陣屋代官岡田庄太夫の定免(じょうめん)制を中心とした年貢増徴政策に反対し,代官所のほか福島・二本松城下へ強訴。幕府の享保改革の年貢増徴政策に対する抵抗として幕府に強い衝撃を与え,徒党禁令を強化する契機となった。(2)1749年(寛延2)桑折(こおり)代官神山三郎左衛門の検見による年貢増徴政策に反対し,陣屋へ強訴。神山の政策は勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)の指導によるもので,諸藩も幕府に準じた政策を展開したため,一揆は隣接諸藩にも波及,三春二本松・会津・守山の各藩領と塙代官所で発生した。(3)1866年(慶応2)蚕種・生糸の改印・冥加金(みょうがきん)徴収と物価騰貴を原因として発生,改印請負人・質屋・酒屋や村役人宅を打ちこわし世直し一揆。打ちこわしは180軒余にもおよぶ大規模なもので,武州一揆と並ぶ66年の世直し一揆の代表例。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の信達一揆の言及

【信達騒動】より

…信達一揆ともいう。江戸時代,陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)で起こった百姓一揆。…

【二本松藩】より

…以来1868年(明治1)まで丹羽氏は11代225年間続いたが,その間,田村郡幕領1万5000石余を預かり,また1730年(享保15)から42年(寛保2)まで信夫・伊達両郡の幕領5万石余を預かった。49年(寛延2)には凶作を機に信達(しんだつ)一揆が起こり,年貢半免と上納延期を約束させられた。元禄年間(1688‐1704)8万以上であった領内人口は,天明飢饉後6万0300人余に減少した。…

【福島藩】より

…陸奥国信夫郡(福島県)福島に藩庁を置いた譜代中小藩。1679年(延宝7)大和国郡山から本多忠国が15万石で入部し成立。忠国はかつて伊達氏の本拠であった伊達郡万正寺村(現,桑折(こおり)町)に築城を計画したが,82年(天和2)播磨国姫路に転封となった。86年(貞享3)堀田正仲が山形から10万石で就封,信夫郡87ヵ村,伊達郡の内17ヵ村,宇多郡の内1ヵ村を領した。正仲,正虎と続き1700年(元禄13)再び山形へ転じた。…

※「信達一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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