菱刈院
ひしかりいん
古代の菱刈郡を引継ぐ中世の院名。後世菱刈両院の呼称も現れる。菱刈両院というのは太良院と牛屎院のことで、大隅国菱刈郡本城・馬越・湯之尾、曾木(現大口市)を太良院と唱え、同郡市山、薩摩国伊佐郡大口・羽月・平泉・山野(現大口市)を牛屎院と唱えるとされた(「新納忠元勲功記」など)。藤原姓菱刈氏系図(菱刈文書)などによれば、左大臣藤原頼長の曾孫重妙は保元元年(一一五六)後白河天皇より菱刈両院七〇〇余町を与えられ、建久五年(一一九四)京都より菱刈郡太良院に下向し、菱刈氏を名乗ったと伝える。しかし建久三年九月の大隅国正八幡宮神官等解および年月日未詳建部清忠解状断簡(ともに禰寝文書)などには、承安三年(一一七三)重妙とその兄弟とみられる高平は禰寝院南俣(現根占町)の領有をめぐって禰寝氏と争い、その後禰寝清房の手で殺されたとある。
大隅国建久図田帳には菱刈郡は島津庄寄郡で一三八町一反とあり、うち郡本は大将殿(源頼朝)の下文を受けて三郎房相印が知行、筑前筥崎宮(現福岡市東区)浮免田である入山村は同じく頼朝の下文を受けて千葉兵衛尉の知行とある。三郎房相印は前掲藤原姓菱刈氏系図では進士判官重妙となっているが、菱刈郡所領相伝系図写(菱刈文書)には重妙の子と記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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