日本歴史地名大系 「牛屎院」の解説
牛屎院
うしくそいん
〔牛屎郡司〕
この頃牛屎郡の郡司職(牛屎院院司職)は、大秦(太秦とも記す、牛屎)氏が相伝していた。同氏の牛屎郡とのかかわりは、康和二年(一一〇〇)大秦元平(元衡)が近衛府への貢節の功により郡司に補任されたことに始まり、以後元重・元永・元光へと相伝された。その間応保年中(一一六一―六三)には家道、承安二年(一一七二)には重綱との間で郡司職をめぐる争いがあり、安元元年(一一七五)頃には国吉(篠原氏)による名田押妨などがあり、同年元光の訴えに基づき、家道・重綱・国吉の妨を排し、元光の牛屎郡司職知行が安堵された(同年八月「右近衛府牒」桑幡文書)。だが国吉は安元二年秋には国衙在庁官人や島津庄官らと結託して田地二五町三反の稲を刈取るなどして元光に対抗、翌三年四月には元光の訴えを認めて国吉らに刈取った稲の返却の命が出された(「右近衛府政所下文」同文書)。なお元光は当時右近衛府に属する相撲人であった。その後小城重道が一時島津庄惣地頭島津忠久により郡司・弁済使に補任されたが、文治三年(一一八七)五月三日重道の相伝を無効として源頼朝により元光は牛屎院を安堵された(「源頼朝下文」島津家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報