菱刈郡
ひしかりぐん
大隅国の北西端に位置し、東は霧島山系などの山々で日向国、西・南は薩摩国に接し、北は国見山地を経て肥後国へと続いており、四国が接する境界地域であった。ほぼ中央部を川内川が南東から北西へ、さらに西へと貫流し、北から南へ同川支流羽月川などが流れる。郡名は菱
・菱苅にも作る。
〔古代〕
当郡はその立地からして、外部からの流入者があったり、薩摩国との境界に変動があったことが知られる。「続日本紀」天平勝宝七歳(七五五)五月一九日条に「大隅国菱苅村浮浪九百卅余人言、欲建郡家、詔許之」とあり、このとき建郡された。菱刈郡の地域はもとは東に接する大隅国贈於郡域であったとみられ、おそらく贈於郡域から桑原郡と菱刈郡が分置されたのであろう。「続日本紀」の記事にみえる浮浪がどこから流入したのか、あるいは在地者で未掌握であったか明らかでないが、延暦四年(七八五)一二月九日の太政官符(類聚三代格)には日向国の百姓が課役を忌避して大隅・薩摩両国へ逃亡していることが記されており、このような逃亡百姓がこれ以前にも流入してきていた可能性もある。
「和名抄」東急本国郡部では郡名に「比志加里」の訓を付し、同書名博本では「ヒシカリ」と読む。羽野・亡野(出野)・大水・菱刈の四郷からなる。四郷の構成は令制では下郡に相当する。だが建郡要望時の浮浪九三〇余人だけで一郡をなしたとすれば、一郷程度の人口でしかない。したがって一郡は二郷以上とする令の規定外の可能性が大きい。規定外の例は大隅国ではほかにないが、薩摩国では「和名抄」で一郷で一郡となっている場合が伊作・揖宿・給黎の三郡あり、さほど珍しい例ではない。南九州の郡構成の地域的特性は概して小規模であるから、律令国家の辺境支配の一つのあり方とみられる。なおヒシカリの「カリ」は南九州の地名・人名の古い慣例的表記とみられる。「古事記」履中天皇段にみえる墨江中王の近習の隼人の名は「曾婆訶理」であり、「続日本紀」天平五年(七三三)六月二日条にみえる多
嶋の益救郡大領の名は「加理伽」で、「カリ」に共通性がみられる。郡域が川内川流域に位置していたことから、古い時期からの川内川の川筋による文化の流入が推測され、八世紀以後はとりわけ薩摩国府(現川内市)とその周辺の文化との接触が考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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