蒲原宿(読み)かんばらしゆく

日本歴史地名大系 「蒲原宿」の解説

蒲原宿
かんばらしゆく

[現在地名]蒲原町蒲原・蒲原一―四丁目・新栄しんえいひがし新田しんでん

古代蒲原郷(和名抄)、中世蒲原庄(郷)の遺称地。北は蒲原丘陵、南は駿河湾に挟まれ、東は富士川右岸に接する。丘陵の末端に沿って東西に東海道が通り、五十三次の江戸から数えて一五宿目にあたる。東は吉原よしわら宿(現富士市)から二里半一二町二三間、西は由比ゆい宿(現由比町)へ一里(東海道宿村大概帳)

〔中世〕

蒲原駅ともいい、神原宿とも記す(春のみやまち)。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)七月一〇日条に「駿河国蒲原駅」とみえ、信濃源氏の井上光盛が頼朝に服従しなかった甲斐源氏の武田氏嫡流一条忠頼に与同した咎により、蒲原駅で吉香(吉川)氏・船越氏によって誅殺された。貞応二年(一二二三)四月一三日に「海道記」の作者が東海道を下り、「蒲原の宿に泊りて菅菰の上に臥せり」と記している。その後「吾妻鏡」のほか「信生法師集」「東関紀行」「関東往還記」「中書王御詠」「みやこぢのわかれ」「春のみやまち」「遺塵集」などの歌集や紀行文にも散見される。文永五年(一二六八)八月日の実相寺衆徒申状写(北山本門寺文書)には「蒲原之君」がみえ、近辺には傀儡子が居住していた。元亀三年(一五七二)五月一一日の武田家朱印状写(判物証文写)によれば、武田家によって蒲原衆に当宿の伝馬屋敷三六間の棟別役等の諸役免除が安堵されており、三六人の伝馬人がいたことが知られる。天正八年(一五八〇)一二月三日江尻えじり(現清水市)から岩本いわもと(現富士市)に至る宿の一つとして当宿に伝馬一疋が命じられている(「穴山信君伝馬手形写」判物証文写)。同一一年一〇月五日当宿の伝馬人らに伝馬屋敷三六間の棟別役等の諸役免除が安堵されている(「徳川家康朱印状」草谷文書)

〔近世〕

天保郷帳に古くは蒲原町とあり、初めは蒲原町とよばれた(元禄郷帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の蒲原宿の言及

【蒲原[町]】より

…ハイキングコースとして知られる大丸山,室町時代に蒲原氏が拠った蒲原城跡などがある。【萩原 毅】
[蒲原宿]
 駿河国の宿場町。地名の初出は864年(貞観6)で,蒲原駅を富士川の東に移したという《日本三代実録》の記載である。…

※「蒲原宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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