日本歴史地名大系 「蒲原宿」の解説
蒲原宿
かんばらしゆく
〔中世〕
蒲原駅ともいい、神原宿とも記す(春のみやまち)。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)七月一〇日条に「駿河国蒲原駅」とみえ、信濃源氏の井上光盛が頼朝に服従しなかった甲斐源氏の武田氏嫡流一条忠頼に与同した咎により、蒲原駅で吉香(吉川)氏・船越氏によって誅殺された。貞応二年(一二二三)四月一三日に「海道記」の作者が東海道を下り、「蒲原の宿に泊りて菅菰の上に臥せり」と記している。その後「吾妻鏡」のほか「信生法師集」「東関紀行」「関東往還記」「中書王御詠」「みやこぢのわかれ」「春のみやまち」「遺塵集」などの歌集や紀行文にも散見される。文永五年(一二六八)八月日の実相寺衆徒申状写(北山本門寺文書)には「蒲原之君」がみえ、近辺には傀儡子が居住していた。元亀三年(一五七二)五月一一日の武田家朱印状写(判物証文写)によれば、武田家によって蒲原衆に当宿の伝馬屋敷三六間の棟別役等の諸役免除が安堵されており、三六人の伝馬人がいたことが知られる。天正八年(一五八〇)一二月三日
〔近世〕
天保郷帳に古くは蒲原町とあり、初めは蒲原町とよばれた(元禄郷帳など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報