改訂新版 世界大百科事典 「藤原家成」の意味・わかりやすい解説
藤原家成 (ふじわらのいえなり)
生没年:1107-54(嘉承2-久寿1)
平安後期の公卿。六条修理大夫顕季の孫,参議家保の四男。四条流諸家の祖。顕季・家保が白河上皇の〈唯一の御乳母〉従二位親子の子あるいは孫として寵遇にあずかり,院司受領として富威を誇った後をうけ,家成も鳥羽上皇の年給により若狭守に任ぜられたのを手始めに,加賀,讃岐,播磨などの大国の守を歴任した。ことに鳥羽院政が始まるや,〈天下の事を挙げて一向家成に帰す〉といわれるほどの権勢をふるい,1136年(保延2)には従三位に昇り,累進して正二位中納言に至った。その間,従妹得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵を得たため,家成の勢威はさらに強まり,僭恣専横のふるまいも多く,51年(仁平1)には左大臣藤原頼長との間に従者乱闘事件を引き起こしたが,《愚管抄》はこの事件が,上皇の頼長をうとんずる一因になったと書いている。頼長はその日記に〈天下無双の幸人なり〉と評している。
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報